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時は常に流れている。

これからの事をゆっくり考える、という訳にはいかなかった。

京から織田軍は去ったものの、本能寺炎上の爪痕は未だ深く残っているし、側を通ると光秀の怨念が乗り移るなどというちょっと笑えない噂が流れていたりもする。
事件直後より少し経ってから今の方が、様々な情報が流れて京の人々を脅えさせているようだ。

「せめて慶さんが来てくれたら、みんな落ち着くんだけどねえ…」
「慶さん…前田慶次さんですか?」

客が途切れた束の間にお涼が呟くのを聞いて、ルカは奥の間から顔を出した。
そうだよ、と返しながら、お涼が振り返る。

「知ってるのかい?」
「ええ。名前だけですけど」

この世界で会ったことはないから、嘘はついていない。
どう打ち開ければ良いのか悩んでいるうち、お涼には自分がこの世界の人間ではないことを説明出来ずに至っているのだ。

聞かれたら全て話せるとは思うが、彼女が特に聞いてこないのは、苦しんでいたルカの姿からこの時代にありがちな何かしらの理由を当てはめてくれたからなのだろう。
それはそれで、気を遣わせて悪いと思う。

「あんたも会えば分かるよ。慶さんは本当に良い男だから」
「お涼さんがそこまで言うの珍しいですね」

少しずつ店を手伝うようになって分かったが、お涼は愛想より度胸の接客方針らしく、常連客には肝っ玉母さん的な存在である。
うっかり粗相した客を叱り飛ばす事もしばしばあって、あまり、今のように誰かにうっとりしたりはしないのだが。

「そりゃ褒めるさ。何しろ、よその国から来た私が今こうして店を構えてるのも慶さんが手伝ってくれたらからなんだよ」

そう語るお涼は心底嬉しそうにしており、慶次に対する賛辞がまだまだ続きそうな予感がした。
ルカは慌てて口を挟む。

「そ、それで、今はいないんですよね? どこに行ったんですか?」

以前、対織田連合が出来つつあると聞いたから、おそらくその提案者が慶次のはずだが、本能寺の変を機に彼らの動きは全く京に入って来なくなった。

解散したのか、暫く大人しくしているのか、それとも今こそ好機と連合を更に大きくしているのか。

情報の早いお涼なら何か仕入れているかと聞いてみたが、彼女の表情は曇ったままであった。

「さっぱりだよ。慶さんどころか、最近は京に来る旅人がいないしね」
「あ…そう、ですよね」

ここのところ、京の街を訪れる人の数は激減している。店に来るのは近所の常連ばかりであるし、情報を得るには旅人が来なくては始まらない。
何も分からないというこのもどかしい状態はルカには馴染みのない感覚で、こんな日々が続くと余計に不安が募ってくる。

悪い方へ沈みがちな思考に沈みかけた彼女の肩を、お涼が軽く叩く。

「まぁ、慶さんの場合はその内騒ぎを起こして風の噂にでもなるだろうさ」
「はは…」

うっとりしてまで良い男だと評した割に、結論が辛口である。が、その結論に説得力があり過ぎたので、ルカは乾いた笑いを漏らすだけにしておいた。

「じゃあ、その慶次さんが戻ってくる頃には、きっと戦も一段落してますよね」
「ああ…そうかもしれないねえ」

頷いて、お涼が心配そうにルカを見る。
戦と聞いてまたルカが巻き込まれに行くのではないかと心配しているのだ。
苦笑を返して、ルカは続ける。

「あの、お涼さん。戦が落ち着いたら私、旅に出たいんです」
「旅? どうしてまた…」
「探さなきゃいけないものがあるんです。あ、ものっていうか…」
「あーちょいとお待ち!」

今しかないとばかりに話し出した彼女を、お涼が手で制した。

「なんだか長くなりそうじゃないか。店閉めるから奥でゆっくりお話しよ」
「でも」
「ルカ、私はもうあんたのこと娘のように思ってるんだ。大事な話くらいゆっくり聞かせておくれ」
「!」

彼女の頼もしい笑顔に、じんわり胸が熱くなる。

「…姉妹じゃなくて、娘でいいんですか?」

元々母娘と言うほど歳の開きはない。照れ隠しに返すと、お涼がしまったという顔でルカを見て、小さく吹き出した。

「そう来たか全く! ほら、表口閉めてきとくれ」
「はーい」

結局二人でくすくす笑いながら店じまいに取り掛かる。
お涼が店内の片付けをするのを視線の隅に捉えながら、ルカは表口の暖簾を外した。

と、空が妙に暗い気がしてそのまま動きが止まる。見上げると、ただの曇天を通り越し、不気味な色の雲が広がっていた。

「お涼さん、天気が…」
「うん?」

見てください、と空を指差して店内を返り見る。
お涼がルカから示された指の先に視線を向け、そして表情を凍りつかせた。

「ルカ! 危ない!」
「え?」

きょとんとした彼女の耳元を、鋭い音が通り抜けた。
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