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全部、夢だったのではないか。

目を開けて最初に浮かぶのはその思いだった。
部屋に差し込む光は柔らかく、小鳥のさえずりは歌うようで、かすかに聞こえる人の生活音は、常と何一つ変わらない。

しばらくの間、床に耳をつけてその音を聞いていたルカだったが、ゆっくり腕に力を込めて起き上がった。
めまいがするが、この頃はそれも慣れてきてしまったから驚かない。口を引き結んで静かに耐える。

それが終わると、ずりずりと窓の方ににじり寄った。閉まっていた障子を開けると、柔らかかった日差しが強烈に降り注ぎ、わずかだった音が波のように押し寄せてくる。

「……っ」

一瞬、顔をしかめたものの、結局反らさずに目を向けた。
目の前に広がる町並みは華やかに美しく、眼下を通り過ぎる人々は活気に溢れている。
それを、見るともなしに眺めやり、ぼんやりと柱にもたれる。

平和だ。
けれど。
あの悪夢のような時間も全部、夢ではなかった。

そんな事は、分かっている。頭では理解しているけれど、認めたくないのだ。

それなのに。
こうして安全な部屋にいるというのに、ルカの耳は突如として悲痛な叫びを捉えてしまう。
その叫びは痛みを呼び起こし、血の臭いをよみがえらせ、あの凄惨な戦場を再現してしまうのだ。
早く認めてしまえと、嘲笑うように。

「ぅ…っ」

胃が誰かにわしづかみにされたようになって、何かがせりあがってくる。
ルカは窓から離れた。
両手で口を抑え、必死に耐える。全身が熱いのに、頭からは血が引いていくような感覚がする。視界が時々暗転する。
気がつけば、床には汗が滴っていた。

壊れている。

ルカは自分でそう思って、皮肉げに顔を歪めた。

浅井長政が敗れたあの戦から、もう何日もこんな日々を送っている。

当たり前だ。

いきなり戦国の世にやってきて、何も分からないまま人に仕えて、戦に巻き込まれて。
結局全部、失って。

心も体も、限界をとうに超えていたのだ。

「…はぁっ、…」

ようやく衝動が収まった時、見計らったように廊下から声がかかった。

「目は覚めたかい?」

入ってきたのは、この家の主──お涼だった。小さな料理屋を切り盛りする女将でもある。
彼女は手に桶を持っていた。ルカの側に座り、慣れた手つきで汗を拭き取っていく。

「女将さん…」
「病人は大人しくする! ほら、体もだよ」

有無を言わせず着物をひっぺがして、彼女はルカの背を清め始めた。
水は冷たいが心地良い。桶と背中を行き来する一定のリズムと、手ぬぐい越しの体温を感じ、ルカの呼吸が徐々に落ち着いていく。

「少しすっきりしたろ」
「…すみません」

城を焼け出されて、どうやってここまで来たのか、ルカは覚えていない。
ただ、お涼によれば、生き残った人々の集団に紛れ、ふらふら歩いていたらしい。
夫を探しに来た彼女は、そんなルカの手を引きこの京まで連れてきた。帰還できなかった夫の代わりに。

「謝るのはよしておくれ」
「でも…」
「そんな事を言うくらいなら、早く元気になって、そうだ、店の手伝いでもしておくれ。あんた美人だし、きっと大繁盛だよ!」

わざと軽い調子でお涼が言う。その茶目っ気のある表情につられて、ルカもほのかに笑みを浮かべる。
それに少し驚いたお涼だったが、すぐ母性に溢れた笑みになると、ルカの頭を優しく撫でた。

「あんた、きっと頑張り過ぎたんだよ。何も気にしなくて良いから、休んであげな。自分の為に」
「…はい」

頷いた拍子にルカからこぼれた涙を一つ拭って、お涼は出ていく。

頑張り過ぎた。

確かにそうだと、甘えたくなる自分がいる。けれども本当にそうだろうか。

浅井の滅亡後も、織田は各地で破壊と蹂躙を繰り返している。
そうなる事を、知っていたのは自分だけだった。なのに、何も事態を変えられなかった。

あの時、違う選択をしたら。もし止めていたら。
また他の、自分の知る彼らの未来を切り開かせる事が出来たはず。
そう思わずにいられない。

着替え用にと渡された着物に袖を通し、固い表情で帯を締める。
再び窓に寄って、外の様子に目を向けた。

毎日祭かと言いたくなる程、華やかな街。
市が、彼女がこの光景を見たら何というだろう。嬉しそうに、美しく頬を咲き染めて笑ってくれるだろうか。

「助けなきゃ」

その思いだけ、ルカの中に残っている。それが何故なのかはよく分かっていなかったが。

市の行方を思うと息が苦しくなる。呼吸を整えようと、ルカは目を伏せた。

「…!」

瞬間、彼女の目は眼下を走り抜けるそれを捉えていた。
身を乗り出し、人目も憚らずルカは叫ぶ。

「待って! 蘭丸くん!」

人ごみの中、小さな人影が焦ったように振り向いた。


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