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熱に浮かされ、呼吸は荒い。きつく閉じた瞼の端からは涙が溢れる。
今にも消えてしまいそうな儚い声が、時々誰かを呼んでいる。

「お市様…」

水で濡らした手ぬぐいを額に乗せる。それは本当に気休めでしかなく、すぐに熱を帯びてしまう。早く医者に見せるなり、彼女を悪夢から呼び戻してやらねばなるまい。

そう思うのだが、市を寝かせるだけで手狭になるこの部屋の中、ルカに出来る事は限られていた。

「…あの、誰か」

意を決して戸の向こうに呼びかけてみる。
しばらくの沈黙の後、無機質な声が「なんだ」と答えた。

「水をかえたいんです。熱が酷くて…」
「ならぬ」
「お市様の熱ですよ!? あなた、織田の兵ですよね、なら…」
「ここから出す訳にいかぬ」
「そんな!」

ルカはなおも訴えようとしたが、市が苦しむのを見て押し黙る。手を取ると強く握り返された。

「…ルカ」
「お市様、私はここに」
「見えない…光……どこ…?」

覚醒してはいない。彼女はまだ闇の中で苦しみもがいている。
それをもどかしく思いながら、ルカはひたすら考えていた。

光秀と蘭丸は既に城を離れ、近くに待機する織田本隊と合流している。
城を落とし、浅井長政を討ち滅ぼす為に。

気を失った市の代わりにその事実を教えてくれたのは濃姫だった。

「大人しくしてなさい。全部終われば解放してあげるわ」

彼女は悲しそうに告げ、この部屋にルカたちを閉じ込めた。
だからと言って、言われた通り待っている事など出来ない。出来るはずがない。

「どうしたら…」

戸の向こうにいるのは一人。蹴破って運よく倒したとして、眠る市をどう運ぶかが問題になる。
となると、何とか見張りを味方につけなければ。

ルカは緊張の面持ちで戸を見据え、かけるべき言葉を探す。

「あ」
「貴様! なぜっ──」

ルカはきょとんとして口を閉ざす。
見張りが声を上げ、何か言いかけたまま再び沈黙してしまったのだ。
いや、言わない代わりにめきめきと木が折れ曲がるような音はしたが。

緊張して見守っていると、何度か揺れた戸が、次には気持ち良い程一気に開く。

「無事か!?」

現れたのは、白銀と赤の鎧に身を包む、一人の武将。
浅井長政その人だった。

「長政様!」

驚いているルカをよそに、長政は膝をついて市を抱き起こした。軽く頬を叩くと、市の瞼が震えて、ゆっくり持ち上がる。

「…長政さま…」

市は信じられないといった表情で長政を見つめた後、安堵の笑みを浮かべる。

「市、この場所も危険だ。お前はルカと共に逃げろ。いくら兄者とて、妹の命までは奪うまい」
「いや、いや! 長政さま、市は…」
「…ルカ」

必死に訴える市を制して、長政は今度はルカに向き直る。

「城攻め開始まで一刻の猶予もない。市を頼んだぞ」
「ですが、あの」
「無駄口を叩く間などない。良いな、分かったらすぐに行け」
「長政様!」

全くもって止める間など無かった。長政の足音があっという間に遠ざかっていく。
残された二人は少しの間見つめ合い、先に反らしたのは市の方だった。その悲痛な様子にルカの胸が痛む。

「行きましょう…お市様。とにかく、ここにいるのは危険です」
「…うん」

ふらつくのを支えながら、二人は部屋を出る。
長政に倒された見張り兵は見事に床にめり込んでいる。可哀想だが、自力で頑張って貰うしかない。
その横をすり抜け、ルカは慎重に窓に近づく。

閉じ込められていたのは城の隅だろうと予想がついているが、戦況が分からなければ逃げ道も確保出来ない。
まず目に入ってきた空は暗黒としか言えない色で、もうほとんど城の上空を覆っていた。信長がいるのは一段と分厚い雲の辺りだろう。
すぐ下では織田の兵が忙しく走り抜けており、既に戦は織田の優勢にあるように感じた。

「ルカ…だめ…」

どう逃げようかと戦場の地図を思い描いていたところ、後ろから袖を引かれた。

見ると、市が真っ青な顔でルカを見上げている。
見るからに具合が悪そうだが、つむいだ言葉はルカにはっきりと聞こえてきた。

「行かなきゃ。長政様のところ…兄さまの、ところ」
「お市様…」

心はもう決まっているようだった。長政同様、彼女は言い終えるなり走り出したのだ。

「待って下さい! お市様!」

止まる気配はない。
こういう時だけ似た者夫婦ですか、とふらつく市の背中に呟いてみるルカ。

「うう…待って下さいお市様! 私も行きますからっ! 近道しましょう!」

こうする以外、選択肢はなかった。



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