閃光

□00
1ページ/1ページ

【序章・予感編】

今日も、武田の本拠地躑躅崎館には幸村の元気な声が響いていた。

「某に続いて下されぇ!」
「おおおっ!」

そんなやりとりの後、掛け声が段々と遠ざかる。

しばらくはそれに耳を澄ませていた信玄が、ゆっくりと瞼を持ち上げる。身を起こす仕草を見て、梓は作業を止めその背を支えた。

「すまんの」
「いえ」

すぐさま置かれた脇息にもたれ、信玄は梓ににこりと笑む。
笑みを返しながらそっと薬湯を差し出して、梓はふと、障子の向こうに目をやった。

人影が映っている。

「佐助か」

影を見る事なく、信玄がその正体を言い当てた。影は肩をすくめる動作の後、障子を開き、佐助が顔を覗かせた。

「具合はどうです?」
「この程度で病人扱いするでないわ。のう、梓」

話を振られ、梓は苦笑するしかない。

ここのところ信玄があまり館から出ていないのは事実であり、その間、軍の管理は幸村に一任されている。
佐助はその補佐に回っていたのだが、こうして戻ってきたところを見ると、鍛錬もそろそろ終盤らしい。

武田の天下はゆるゆると続いていたが、どこもかしこもが総て円くおさまったかと言うと、そうではない。

混戦状態だったあの日々。確かな真実を語れるのは当事者のみ。
それも、人々の間を通れば尾ひれがついて濁されていく。

何が正義で、何が悪で、平和とは何なのか。

分からなくなりながらも、織田や豊臣の時のように目立って反乱が起きていないのは、ひとえに武田信玄という男の存在によるものだろう。

彼の存在が、各地にいる国主たちを結びつけ、安定させている。

「…いい風じゃの。もう少し開けてくれんか」

薬湯を飲みながら、信玄が言う。佐助がそろりと障子を滑らせると、確かに心地良い風が頬を撫でた。

幸村の声はまだ聞こえてこない。

無茶をしていなければ良いとぼんやり思うが、彼の側にはしっかり者の小姓が付き従っているから大丈夫だろう。
時々、こちらがドキリとしてしまう程、あの幼かった少年は大人になった。

「明日は、幸村の鍛錬に付きおうてやらんとのう」
「…はい」

止めるだけ無駄だと分かっているから、梓も佐助も頷いただけだった。
それに、信玄にとっても幸村との鍛錬が一番の薬になるだろう。

なぜかちくりと胸が痛んで、梓は一瞬眉をひそめた。
だが、向かいの佐助が気づく前にそれは消える。

「佐助、梓」

どこまでも落ち着いた信玄の声が二人を呼ぶ。
はっとして顔を上げると、信玄はいつも通りの優しい目で外を見ていた。

「儂は、これまで一度たりとも疑った事などない」

そして、懐かしむように目を細める。誰の事を言おうとしているのがすぐに分かった。

膝の上に置いていた手が、知らず汗をかいている。悟られないように隠しながら、梓は次の言葉を待つ。

「幸村は儂を超え…立派に、武田の誇りを守り抜く男となる」

その器を持っておる。
迷う事なく言って、信玄はまた微笑んだ。

「ちぃと優し過ぎるが…そこが良き所でもある。じゃから儂は安心してここに居られる」
「お館様…」

空になった湯飲みを戻して、信玄がほぅ、と緩く息を吐き出した。

「……あやつの治める天下も…見てみたいのう」

胸の奥で、何かがうごめいている。
信玄の、独白のようなそれは、うごめく何かに力を与えているようだった。

早く、早く。
何かが梓を、そして佐助を焦らせている。
信玄を間に挟み互いにそれを確認して、二人は頷き合う。

覚悟は、出来ている。

二人が頷くその間さえも分かりきっていたように、信玄は梓たちを交互に見やった。

「頼んだぞ」
「はい」

しっかり答えて、ざわつく胸を抑え込む。
そして薬を片付け始めると、幸村たちが戻ってくる声がした。
そろそろ湯と食事を用意する時間だ。

「おおそうじゃ、梓」

立ち上がりかけたら呼び止められ、梓はまた座り直した。
何でしょうと問い返す彼女に、茶目っ気のある視線を投げた。

「久々に梓の笛が聞きたいのう」
「い、今ですか?」
「今すぐじゃ。そういう事じゃから佐助、幸村の事は頼んだぞ」
「えー!? そりゃないっしょ大将〜!」
「たわけ。お主ばかり楽をするでないわ」
「…俺様がいつ楽なんかしたってーの…」

がっくりうなだれて、佐助が立ち上がる。
思わず笑って見送りながら、梓は懐から笛を取り出した。




次の章へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ