閃光

□05
1ページ/5ページ

【上田城水攻戦】

暗雲たちこめる空を見やり、家康はそっと息を吐いた。

絆の力で戦のない世を。
そう説いて回るようになって、手応えも、やるせなさも、同じくらい感じている。
諦めるつもりはない。しかし、説くだけでは相手の心へ届かない、そのもどかしさに拳を握りしめた回数は数知れない。

佇む彼に、後ろで控えていた男たちが諌めるような声で言った。

「何も自ら出陣なさる必要は…」
「何を言っているんだ。ワシの仲間がいるのだぞ。ワシが行かないでどうする」

振り返ってそう答えると、家康は再び前を見据えた。

金ヶ崎。
かつてこの地で戦いを繰り広げた男たちは、もういない。
織田も、浅井も、己の業、そして悲運によって命を落とした。

それもまた絆の力と呼ぶのなら、なんと虚しく儚いのだろう。

「さて…行こうか」

織田の残党が今もこの地で密かに動いている、と報告を受けたのはいつの事であったろう。
まだ、豊臣の元にいた頃かもしれない。
あの頃は、情報を得たところで差しのべる手を持っていなかった。
いや、それは言い訳、かもしれないが。

軽く走りながら道を進めば、確かに、人の気配を感じる事ができる。

この辺りを探っていた先見隊が戻らない。
その知らせを受けて、彼はここにやって来たのだ。

やがて見えてきた檻の中に探していた姿を見つけ、家康は気合いと共に拳を突きだした。
がらがらと崩れる檻から、兵士たちが飛び出してくる。

「お前たち、無事か!?」
「家康様ぁー!」
「すいません、俺たち…」

各々の無事を確認し、家康は更に辺りを見回した。

「先見隊は他にもいたはずだが…」
「は、はい…でも」
「俺たちも…何がなんだか…」

気づいたら捕らわれていた、と口々に言う彼らから詳細は望めない。
彼らにはとにかく休むよう言って、先に進もうと決めた。

しかし、固く閉ざされた門の前にはどす黒い塊がある。
家康が近付くと、不気味にうごめいて見えるそこから、何かがちょうど這い出てきたところだった。

「ひぃいいっ」
「ひ、人が…っ」

警戒していた兵たちが一斉に隊列を退く。
その前に立って、家康は息を飲んだ。

出てきたのは、兄と夫との間で哀しい運命に翻弄され続けた一人の女。
その後も陰謀に巻き込まれ、最期は狂死した、と聞かされていた人物。

「お市殿…!」

生きていた。
死ぬことすらできず、闇の中で苦しみ続けていたというのだろうか。

愕然としたが、彼女にこちらの声が届いているようには見えない。
かける言葉を探している間に、彼女を支えるように伸びていた触手が家康目指して襲いかかってきた。

「くっ…」

近ければ禍々しい気を感じて避けられるが、離れてしまうと宵闇に同化し判別がつかない。
幾つか傷を作りながら、家康は何とか触手から市を救い出そうと機を伺う。

「家康様!」

戦闘の気配を察した後方から、松明を抱えた部隊が走ってくるのが見える。
その炎に照らされて、一瞬、市の虚ろな目に生気が過った。

そして。

「いや…いやぁっ…!!」
「お市殿!?」

拒絶の言葉を繰り返しながら、彼女は涙と共に闇へ沈んでいく。
引き上げようと咄嗟に伸ばした手は、ただ土を掴んだだけだった。

松明を振り返り、家康は唇を噛む。

炎が、彼女の辛い記憶を呼び覚ましてしまったのは明白。

ならば、と家康は皆に告げた。

「皆、火は最小限に。彼女が見つかったら消してくれ」
「しかし…」

そう言っている間にも、開いた扉の奥から、狂ったように叫ぶ男たちが走ってくる。
織田の残党だ。
彼らが先見隊を捕らえ、そして彼らがいる限り、市も救えないのだ。

家康の目には、珍しく明らかな怒気が見てとれた。

「どうして静かに眠らせてやらないんだ…!!」

例え悪夢だとしても、きっと、辛い現実よりは良い。
静かに、密やかに、傷が広がらないように。
何故そっとしておいてやれないのか。

ぐ、と力をこめた拳が地面を叩く。次の瞬間には、周囲の土が抉れるように跳ね上がり、残党軍のことごとくを巻き込んだ。

かつて、虚勢を張って纏わせていた雷は、覚悟を決め、武器を捨てたその時に光へ変わった。
当て身でなくとも、その光ごと放った彼の一撃は風圧だけでも敵群を薙ぎ倒す。

「…………!!」

その圧倒的な強さに怯んだ残党軍の中央、家康を追い越してなお突き進む者がいた。

忠勝だ。

何者かに背後を衝かれない守っていてくれと頼んでおいた筈が、家康が何を言う間も与えず、存在感一つで敵を退かせているではないか。
まぁ、戦場で彼を見かけて喜んで寄ってくるのは島津公くらいであるが。

「まったく…」

先程までの怒りはどこへやら、いつまでも過保護な部下に苦笑を漏らして、家康は軽快な足取りを取り戻した。

檻を見つけては壊し、そしてまた、夢と現実を行き来しながらさ迷う市を追いかける。

見付けたからには、彼女を手厚く保護する。
二度と、哀しい運命に引き摺られないように。

空を見ると、そこは既にうっすら白くなりつつあった。直に陽が射し込んでくるだろう。
突進としか言えないような忠勝の歩みが止まり、奥には再び闇から這い出た市が見えた。

「う…うっ…」

夜が終わる。
勿論、明けない夜などない。

だがそれは、市にとって新たな苦しみの始まりでもあるのだ。
彼女は朝陽を背に、うずくまって震えていた。

「お前たちは、手を出さないでくれ」
「しかし…っ」
「頼む皆……な、忠勝」
「……」

もの言わぬ彼が、真っ先にその手にあった槍を背に戻す。
それを見てふと表情を緩めると、家康は静かに歩を進めた。
気付いた市が僅かに顔を上げる。

「…怖がらないでくれ。迎えに…来たんだ」
「迎え…」
「ああ。おいで」

幼子に話しかけるように、優しい声で、柔らかな眼差しで。
家康は真摯に語りかけた。

「もう眠ろう…眠っていていいんだよ」
「………」

ゆるゆると、市は家康の姿を捉え始める。
何かを悟ったように一瞬光を取り戻した目が、家康の拳に向いた。

「……光…」

強く握れば折れてしまうに違いない、白く細い指がそっと拳を撫でる。
次に彼女が見せてくれたのは、子どものような無邪気な笑顔だった。

「市を…殺してくれるの…?」
「…!?」
「ねぇ…?」
「……違うよ」

動揺を抑えながらそう返すと、彼女は至極残念そうに眉を寄せた。
そして、じっと家康の目を見上げる。
逸らしてはいけない。
それだけを念じて視線を受け止めた。

「……哀しい目を…してるのね」
「……」

拳に重なっていた手が、今度は頬に伸びてくる。
だが、触れる事はなかった。

「ふふ…優しい、人…」

ぱたりと意識を失った市を抱き止める。
ふう、と安堵の息を吐いてしまった自分に、思わず苦笑を漏らした。

きっとあれ以上視線を受けていたら、彼女の闇に引き摺られていた。
それが分かって、彼女が自ら意識を手放してくれたような、そんな気がする。

「お市殿…あなたは強いひとだ」

眠る彼女にそう告げて、信じて見守ってくれた部下たちを振り返った。

「さあ皆、先へ進もう」



次へ
前の章へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ