閃光

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【序章・別離編】

平和とは所詮、争いの間隙でしかないのだろうか。

興奮する馬を軽くいなし、幸村は唇を噛み締めた。

前方に広がる黒い軍勢。拓けた台地に陣取るそれは、さながら空を覆う黒雲のよう。
その黒雲が今まさに、点在する紅を飲み込もうとしている。

「旦那!」

後ろから、鋭く佐助の声がする。振り返らずとも彼の緊張した顔が思い浮かぶ。

つい最近まで、あんなにも平和な日々を送っていたのに。

肌が感じている、鍛錬と全く違う、ピリピリと痺れるこの空気感。

──嗚呼、これが戦場だ。

体が覚えている、懐かしくも悲しいそれを受け入れて、幸村は振り返った。

予想通りの場所に佐助が立っている。今一度命じた偵察を終え、いつもの瓢々とした態度をしまい、彼は険しい表情で幸村を見ていた。

数々の修羅場をくぐり抜けてきた彼にここまで余裕を無くさせているこちらの分の悪さを実感し、幸村の表情も険しくなる。

「佐助、準備は良いな?」
「いつでも」

短いやり取りで十分伝わる。互いに頷き合い、続けてその奥へ目をやった。

そこに控えるのは、武装した幸村の小姓──いや、もう腹心と言って差し支えないだろう。
雰囲気がどこか幸村を思わせると他の武将たちが口々に噂する、一人の少年。

「幸村さま…」

少しずつ大人びてきたものの、まだ幼さが残る。幸村はこの少年を弟のように見守ってきた。佐助も同様に、家族のように暮らしてきた。

出来れば、彼に戦など知って欲しくなかった。

「心汰、側から離れるでないぞ」
「はい!」

その元気な返事に、溢れそうになる思いを押し止め、幸村は前を向く。
最初の陣は既に落とされている。

地面に刺していた槍をしっかり引き抜き、幸村は力の限り叫んだ。

「真田源二郎幸村、ここにあり!」

大喝が各陣に響き渡る。
全ての者に見えるよう、力強く、幸村は槍を天に掲げてみせた。

「武田が魂、見せてやろうぞ!!」

おおお、と地鳴りのような叫びがそこかしこで上がる。その声に押されるように、幸村の握りしめる槍が炎を纏った。

「行くぞぉおお!!!」

ここからは、ただ前だけを見て走るのみ。ひたすらに斬り伏せるのみだ。

幸村を乗せた馬が走り出し、後ろに騎馬が続く。

必ず押し戻してみせる。

襲いかかる太刀にも怯むことなく、幸村は炎の槍を突き出した。






──武田軍、本陣。

幸村の声は、もちろんここにも届いていた。

「始まったか…」

信玄のそれは本当に小さな呟きであったが、すぐ横から「はい」と返事があった。
視線を転じると、そこでは凜とした空気の漂う、一人の忍が控えている。

元々可憐な印象であった彼女の美貌は、誰もが息を呑む程に磨かれた。その美しさは戦場においても損なわれる事がない。
しかし、今再び訪れた戦を前に、彼女の瞳には憂いの影が落ちている。

「済まぬのう、梓」
「お館様…?」
「お主にそんな顔をさせてしまったのはこの儂じゃ」

身近の平和に慣れ、隅々まで自らの手を伸ばす事を怠った。
何より、志半ばに散った者たちを軽んじた、この至らなさがこの戦を引き起こしたのだ。

「石田三成…これほどの人材…力が、まだ豊臣に残っていたとはのぅ…」

梓が無言で信玄の手を取る。
かすかな震え。手元に目を落として、信玄は驚愕に目を見開いた。

震えているのは彼女ではなく、信玄自身。
自然と自嘲が浮かぶ。

「…ゴフッ!」
「お館様っ!」

始まった咳に身を屈める。梓が背をさすり、周りの兵が駆け寄ってきた。

ここまでか。

このところ、何度も横切っているその思い。
つい最近まではそれでも良いと感じていた。それほどに満ちたりた日々であった。
しかしこの戦、始まってしまった以上、背を向ける事は出来ない。絶対に、それだけは。

「梓…少し、笛を奏でてくれぬか」
「はい、お館様」

真剣な表情で梓が頷き、腰に帯びた数々の武器から笛を選び取る。

その動作を、横でぼんやりと見上げる信玄だったが、視界の隅にあるものを捉えて勢い良く起き上がった。身体が軋むが構っていられない。

「きゃっ…お館様!?」
「いかん…!」

悔しげにそう言った信玄の頭上を、大きな影が数度旋回し、そして去っていく。
梓も気づいて一層表情を引き締めた。

「梓、今すぐ幸村へ伝えよ!」
「ですが!」
「儂の事は良い! 行って伝えよ! 撤退じゃ!」
「…はい!」

躊躇う素振りはあったものの、梓は頷くやいなや音一つ起てずその姿を消し去った。いつ見ても鮮やかな術である。

「……長く、生きすぎたのかのう…」

慌ただしくなる陣の中、信玄の呟きは空へ吸い込まれていった。



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