色々夢

□小話(秋水)
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小話7


艶やかな黒髪が頭の後ろで時々風に揺れる。同じ漆黒の衣服は華美ではなかったが、充分に品格を感じられるものである。
だが、麗しいその容貌は、いつもよりも厳しく引き締まっていた。

「見て、楊采様よ…」
「どなたか待っていらっしゃるのかしら?」

町娘たちが、ひそひそと話しながら遠巻きに見守る。いつもなら、柔らかな笑顔を振り撒いて彼女たちに近付いてくるのだが、この時の楊采は門の前にじっと佇み、伏し目がちにしていた。
憂いているようなその表情が楊采の雰囲気を妖しくさせていて、娘たちは思わず見惚れてしまう。

「あんな表情もなさるのね…」
「ええ…いつもの笑顔も素敵だけど…」

町娘たちは勝手に色々な妄想を働かせては色めきたっている。誰かを待っている事は明白なので、その相手が誰なのかという事が、今一番彼女たちが知りたいことである。
以前から密かに恋仲と噂のある夏侯惇か。しかし、憂いを含んだようなその表情は、もしや別れ話でもするつもりか。
これは大事件の予感がする。
と、娘たちが顔を見合わせた時、楊采が何かに気付き、途端に嬉しそうに目を輝かせた。

「曹操様!」

大きな声で敬愛してやまない主君を呼び、馬車に駆け寄る。すぐに止まった馬車からその主君が降りてきて、楊采が頭を下げてそれを迎える。

「お帰りなさ──い゛い゛い゛!」
「その締まりのない顔はなんだ」

楊采の語尾が悲鳴になったのは、おもむろに手を伸ばした曹操が楊采の頬をつねったからである。

娘たちは娘たちで、声にならない悲鳴をあげた。
視察や戦に赴く際の威厳溢れる姿くらいしか見たことがない曹操が、己の片腕とまで信頼を寄せる楊采にそんな子供じみた真似をするとは思っていなかったのである。

「…!…!」
「ふ、いつにも増して良く伸びるな」

ひとしきり遊ばれた後ようやく解放され、楊采は、不満と照れで不機嫌そうな顔をしつつ、上目使いで曹操を見詰めている。
逆に曹操は機嫌が良い。このような街中でうっすらと微笑んでいるのは、とても珍しかった。

「して、私の留守中、変事は無かったか」
「ありません、ご安心を」

うむ、と頷いて、先程頬をつねっていたその手が今度は楊采の頭を撫でる。嬉しそうに笑う楊采は、これ以上ないほどに可愛らしく見えた。
なんだあの色々すごい光景は。
娘たちは腰が砕けそうになっている。

「では、参るぞ」

曹操がその言葉と共に、くるりと体の向きを変える。向かう先は、彼の屋敷ではなく街の方である。

「はいっ♪」

花畑が見えそうなほどうきうきしている楊采が彼の後に続く。惚けた娘たちが見守る中、二人はそのまま店に入っていく。どうやら、外で一緒に食事をとる為、待ち合わせていたらしい。

完全に店へ入る直前、不意に楊采が娘たちへ視線を送る。
見ていたのを咎められるのかと身構える彼女たちに、楊采は軽いウインクを決めて手を振ると、そのまま建物の中へと消えていった。

道に残されたのは、癒しオーラに充てられて立つことも出来ない娘たちばかりだったという。







「っていう事があったらしいぞ、兄者」

街で拾ってきた噂話である。どこまで本当か分からなかったので、夏侯淵はかいつまんで、曹操と楊采が二人で街へ食事に行ったらしいという事だけ伝えた。

饅頭を頬張りながら兄の様子を観察するも、彼はとても暗い顔で手元の茶を見詰めている。
これで軍内の雰囲気が悪くなったら楊采のせいにしようと責任転嫁していると、夏侯惇がぐっと茶を飲み干した。

「曹操様と二人で…食事だと…」
「お、おう…」
「楊采め…なんと羨ましい…!!!」

え、と固まる夏侯淵。てっきり恋人が心酔している曹操へ向けて、複雑な思いを溢すであろうと思っていたのだが、彼の感情の行き先は夏侯淵の予想と別の方向を向いていた。

「俺だって曹操様と二人で食事など…いや待て、その空気に俺は耐えられるのか…? 曹操様と…いったい何を話せば…食事しながら戦の報告を…いやまて、それはちょっと…」

夏侯淵は、己の予測が甘かった事を反省した。楊采とこの義兄が恋人同士になったと聞いた時は何故かこちらのほうが照れてしまうくらい嬉しかったのだが、やはり規格外の二人に普通の恋人のような反応を求めてはいけないようである。

「…ん? どうした、夏侯淵」
「……いや、その、曹操様に嫉妬したりしない…んだな? 兄者は」

隠し事しないというのが二人の約束であるから、素直に伝えた。すると、夏侯惇は迷いなき目で頷きを返してくれた。

「俺と楊采から曹操様への忠愛を取ったら何も残らんからな。それとこれとは全く別の話だ」
「あ、そう…」

曹操様第一主義。
そう顔に書いてある義兄から少しずつ距離をとり、夏侯淵はそっとため息をついたのだった。


20170110
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