色々夢
□小話(秋水)
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小話3-1
部屋の前を通りがかったら中から人の気配を感じて、夏侯淵は首を傾げた。
「楊采、いるのか? 入って良いか?」
「夏侯淵か…良いぞ」
今日は休暇で出かけると聞いていたのに。
疑問に思いながら部屋に入る。
そして、驚愕のあまり持っていた菓子を落としそうになった。
「な…な…っ?!?」
「そんなに驚くか?」
口調はいつも通りの楊采だが、今、目の前にいるのはどう見ても別人の、美しい女であった。
時折女装して潜入捜査する、と聞いたことはあったが、まさかこれがそうだろうか。そもそも女なのだから女装という言い方が合っているのかよく分からないが。
「今日、休みじゃなかったのか?」
「休みだよ。いつもの格好だと街の人達が次々話しかけてくるからさ…これで行こうかと思って。良い作戦だと思わないか?」
これはこれで放っておけないと思う。
と思ったが、夏侯淵は言葉を飲み込んだ。先程は別人だと思ったが、こうして喋ってニヤニヤしているのを見ると普段とそう変わらない。
なんとなくがっかりした。
「で、私に何か用があったのか?」
「用っていうか…」
少しばかり彼女の悪知恵を借りたかったのだ。敬愛する義兄の為に。
「あー…ちょっと一緒に来てくれ!」
「え? 何で?」
楊采の手を引き、ほとんど全力疾走に近い速さで屋敷から抜け出す。
「夏侯淵…見ない間に随分足が速くなったなー」
「って言いつつお前は息一つ乱してないじゃないかっ」
「ははは! いい準備運動だ」
いつもと違い女物の服を着ていて走り辛そうなのに、けらけら笑って付いてきている。
こいつの運動能力は一体どうなっているんだ。
内心恐ろしく思いながらも、目的の場所が見えてきて夏侯淵は立ち止まる。
物陰からそっと通りを覗くと、探していたものが見えた。
すぐ下で、楊采も同じように顔を出した。
「あれは…夏侯惇じゃないか。あんな所で何してるんだ」
「しっ…ちょっと見てろ」
しばらく見守っていると、どこからか夏侯惇を呼ぶ声が複数聞こえ、途端に夏侯惇本人が慌てて走り出す。
彼が消え去った場所に、すぐさま数人の女性が集まるのが見えた。
「?…何あれ?」
「…兄者の婚約者候補たちだよ。追いかけ回されてる」
「まさかずっとああして逃げてるのか?」
「今朝からずっとだ」
どうせ後で噂が耳に入るので、正直に話しておく。
以前から、夏侯惇の父が彼に見合いをしろと口煩く言っていたのだが、夏侯惇は全て断っていた。夏侯惇と彼の父との根比べ状態だったわけだ。
そうしたら今回、業を煮やして書簡どころか候補者たちを直接送り込んで来たのだ。
ぷっ、と楊采が吹き出した。
「笑うな!」
「いやだってあれ酷過ぎだろ。女嫌いというよりむしろ怯えてるだろ」
「仕方ないだろう…あれが兄者の精一杯なんだ」
夏侯淵だって、あの逃げっぷりは如何なものかと思わないでもないが、顔を合わせて話すこともできないのだから致し方ない。
「楊采、兄者を救ってくれ」
「嫌だよ。面白いから遠くから見てようよ」
即答である。人が困っているのに心底楽しそうなのが腹立たしい。
「…助けないとお前の休暇も無くなるぞ。あの追いかけっこのおかげで兄者の仕事が全部滞ってるからな」
「何だと? 今日の為に私が何徹したと思ってるんだ」
「じゃあ助けてくれるよな」
えええ、となおも渋っている楊采。夏侯淵は用意していた最終兵器を出すことにした。
「楊采がどうしても嫌だって言うなら…今から曹操様に相談してくる」
「おい待て。それ結局曹操様命令で私が動く事になるじゃないか」
「そうだろうな」
むう、と不機嫌に頬を膨らませ、楊采は暫く考えていた。
相当関わりたくないらしい。
「……しょうがないな……気乗りしないけど休みのためだ…やってやろう」
「よっしゃー!」
ようやく交渉成立だ。夏侯淵は激しくガッツポーズを決めた。
二人で物陰から出て、服についた皺を伸ばす。通りすぎる人々がいぶかしんでいたが、気にしない。
長い黒髪をさらりと払って整えた時には、楊采の顔つきは一変していた。
「さあ…すぐ終わらせよう」
声も表情も蠱惑的なのに目だけが笑っていない。
夏侯淵は戦慄しながら頷いた。