色々夢
□小話(秋水)
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小話2
曹操の部屋に赴くと、彼は仕事をしていた。
朝、挨拶に訪れた時と全く同じ光景である。
少しは休憩を挟んでいるのか心配になるが、あまり口うるさく言うと機嫌を損なって逆効果になるおそれもあり、言い出すタイミングには大変気を使わなければならない。
「曹操様、新たな報告が上がりましたのでおまとめして参りました」
「うむ」
筆を置いた曹操が短く頷き、報告書を受け取ると、疲れの見えない真剣な眼差しが文字を追いかけ始める。夏侯惇は黙ってその様子を見守った。
「…夏侯惇」
「はい!」
不意に名を呼ばれ、何か不備があっただろうかと不安になり身を乗り出す夏侯惇。
顔を上げた曹操はどこか楽しそうだった。
「いや、これの内容の事ではない。これはこのまま受け取るので、代わりにあれを持って帰ってくれぬか」
「? あれとは………え、はぁっ!?」
曹操の長い指が示したのは、衝立の向こう側。微かに見える衣の色で、誰がそこにいるのかすぐに見当がついて、夏侯惇は曹操の前であるにも関わらず思いっきり大声を上げてしまった。
「楊采! お前、こんな所で何を…」
楊采が身を預けていたのは、先日西方から持ち込まれた長椅子であった。曹操好みの絢爛豪華なしつらえで寝心地も良く、休憩に丁度良いと部屋に運ばせたばかり。
ただでさえ休んでくれない曹操が唯一、望んで作った休憩場所を、何故部下がぶんどっているのだ。
「おい! 楊采!」
「…………すぅ」
かなりの力で揺すったのに、聞こえてきたのは健やかな寝息。
呆然とする彼に、曹操の楽しそうな声が届く。
「私も色々試したが、何をしても起きぬようだぞ」
「なっ…いつからここに…?」
衝立越しに曹操を見ると、彼は仕事の手を止めないまま説明してくれた。
「少し前だ。お前と同じように報告書を持ってきたので私が目を通していたら、いつの間にか立ったまま寝ていたのだ」
「立ったままですか!?」
器用なやつだと思っていたがそこまでとは。
呆れながら再び楊采を見るが、これだけ近くで大声をあげているのに瞼はぴくりとも動かない。
「そう言えば、一昨日からどこかへ行っていたのでは…?」
使いを頼まれたから数日屋敷を空ける、と出立の挨拶ついでに仕事を引き継ぎに来たのが一昨日だった。それを思い出して訊ねると、曹操が頷いた。
「本来、移動の日数だけでも2日はかかる筈だが、どうせ寝ずに走ってきたのだろう」
「……」
曹操は勿論だが、楊采も楊采で限度というものを知らない時がある。
主君の目の前で寝るなど言語道断だが。
「夏侯惇、そういう訳だ。済まぬが部屋に運んでやってくれるか」
「…承りました」
幼い頃より信頼関係を築き上げてきた楊采だから許されているのだと、曹操が彼女へ向ける優しげな眼差しで確信できる。
もし他の人間が彼の目の前で居眠りなどしようものなら、そのまま首をはねられかねない。
夏侯淵が日頃から「曹操様は楊采に甘い!」と愚痴を溢しているが、全く同意見だった。
まあ、その意見を曹操に告げる勇気はないのだが。
「では、失礼します」
「うむ」
曹操の部屋を出て、人に会わないように周りを気にしながら歩く。事情を知らぬ者にこんな光景を見られたらどんな噂が立つかわからないからである。
簡単な武装しかしていないのか、持ち上げると予想よりも随分軽く、やはり男に比べて小柄なのがよく分かる。
「これでよく動けるな…」
普段の働きぶりを知っているだけに、彼女の無防備な寝顔を前にして、夏侯惇もあまり強く怒る気にはなれず、むしろ感心してしまう。
もしかしたら曹操もこんな気分だったのだろうか。
辺りを警戒した動きは我ながら相当怪しかったが、何とか誰にも会わずに彼女の部屋まで辿り着く。
寝台に横たわらせ、胸を撫で下ろした。
「んん…」
「!?」
ここに来て初めて寝苦しそうに顔をしかめたので、夏侯惇は驚いて飛び退いた。
だが、目が覚めた訳ではなく、彼女は寝返りを打ってまた動かなくなった。
「…あ、ああ…髪留めが痛かったのか…」
長い髪を頭の後ろで結っているから、仰向けの体勢だと頭が痛かったようだ。
寝かせる為だと自分に言い聞かせ、四苦八苦しながら髪留めを外し、結われている髪を解く。
「……!」
白い敷布に広がる黒髪は艶やかで美しく、つい目を奪われてしまう。
そっと髪に指を差し入れると、滑らかに通り抜けていった。
女の髪に触れた事など今までないので、初めての感触に感動すら覚える。
「…って、俺は何をやっているんだっ…!!」
慌てて手を離し、夏侯惇は自分の行動に狼狽えた。
赤くなったり青くなったりしながら寝台から距離を取り、楊采の気配を探る。
「…すー…すー…」
よし、寝ている!
何が「よし」だか最早よくわからなかったが、夏侯惇は勢いよくガッツポーズを決め、急いで彼女の部屋を飛び出した。
「あれ、兄者?」
「なっ…か、か夏侯淵!?」
夏侯惇は、部屋を出る時まで気を回していなかった事を激しく後悔した。
そんな兄の心境など露知らず、夏侯淵は首を傾げる。
「こんな時間にどうしたんだ、そこ、楊采の部屋──」
「違う! なな何もしてない! 俺は…そうだ、あいつが立ったまま寝ていたと言うので運んだだけだっ!!」
「え?」
きょとんとする弟を残し、夏侯惇は全力で走り去った。
───
後日、兵士の間で
「楊采様は立ったまま寝るほどお忙しいらしい…」
とかいう噂が流れて畏れられる事に……なったりならなかったり
御粗末様です!!