色々夢

□白雲を抱く
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あらかじめ伝えてはいなかったのだが、旅装を整えてやって来た楊采を、趙雲は落ち着いた態度で迎え入れてくれた。

「行くんだな」
「ああ、世話になった」
「…いや、こちらこそ……助けられた」
「?」

何故今更趙雲が照れながら礼を言ってくるのかよく分からなかったが、最後の挨拶になるのでとりあえずそのまま受け取っておく。

機会をうかがっていた冀州への潜入は、先日の会談を公孫賛がうまく纏めてくれたお陰で必要がなくなった。なので楊采はこのまま、関羽たちがいる長安を目指すつもりでいる。
さすがに、いくら何でもまさか付いて来ようとはすまいと趙雲を見上げてみると、彼は苦笑いを返してきた。

「袁紹殿の様子も見ていなくてはいけないし、今しばらくは公孫賛様のお側にいる」

そう命じられているしな、と付け加える辺り、もしかしたら主君に相談して止められた可能性はある。だとすると公孫賛には感謝しかない。

「そうか。まぁ、もし何かあったら…曹操様にもそれとなく知らせてくれると助かる。無理にとは言わないが」
「公孫賛様に伝えておこう」

この主従は、この手の話を振ると社交辞令でなく本当に通してくれるから凄い。
が、そこにつけ込んでここまで世話になったのだから、もう楊采にはその事を呆れたり蔑んだりする権利はない。猫族同様、そういう人々なのだとその事実を覚えておくだけだ。

「…よろしく。じゃあな」

外套を翻し、楊采は少しだけ馴染んできていた趙雲の部屋を見渡す。
最低限必要な物以外何もないのは、自分の部屋にも通じるものがある。
何もないのは実は夏侯惇の部屋でも同じなのだが、本来彼らの身分を考えればもっと飾り立てていても可笑しくないというか、色々威厳を保つ為のものが必要である。
だから、曹操の執務室だけは一番豪華に設えている。すぐに書簡や竹簡で埋まっていくので威厳どころではないのが現状だが。
懐かしい。早く帰りたい。

「楊采?」
「何でもない。もう行くよ」

変に思い出してしまい立ち止まったせいで、見送り態勢だった趙雲が不思議そうに声をあげた。
慌てて踏み出しかけた足は──結局たたらを踏んでしまった。

いっそ心地好いと思えてしまうほど優しい腕の感触。長身の彼に抱き寄せられると、楊采の頭は彼の胸に当たってしまう。後ろ向きのままぽすりとそこに収まってから、楊采は止まりかけた呼吸を何とか再開させて文句を込めて名前を呼ぶ。

「趙雲!」
「隙を見せたお前が悪い」

低く、喉を鳴らすような笑いが耳元で聞こえ、その色めいた声音に訳もわからないまま楊采の心臓が跳ねる。

「…何を考えていた?」
「っ…忘れたよお前のせいで…」
「それは良かった」

正直に話さなかったその答えは正解だったのだろうと、腕の拘束が緩むのを感じて楊采はほっと息をついた。が、完全には解放されておらず、相変わらず吐息を感じ取れる距離感だ。腹立たしいので何か仕返してやりたいのだが、生憎何も思い付かなかったので黙ってなされるがまま。
本当に、非常に悔しいが、この状態からでは身長と力の差が歴然としていて抜け出せないのである。

「相手が相手だ、気を付けろよ」
「分かってる」
「猫族の皆を頼む」
「必ず」

短く断言してみせたその言葉に乗せた覚悟は伝わったのかどうか。
今度こそ解放されて、楊采はくるりと振り返った。
先程の趙雲は緊張を漂わせていたのに、予想に反して彼はとても綺麗な微笑みを浮かべていて、楊采は面食らってしまった。

「楊采、またな」
「…ああ」

また今度出会う時は、その時こそ敵同士なのではないか。
いつか思ったその可能性は、一度無くなったものの、完全に消える事はない。
だが、今は考えたくない。
なので楊采は思考を放棄して、思いきり息を吸い込んだ。

「あとな!! 次はもう、さっきみたいなことするなよ!!??」
「…………善処しよう」
「絶っっ対するなよ!!!」

何故こんな捨て台詞になってしまったんだと思いながら、楊采は部屋を出ていく。追いかけてくる気配はない。
これから向かう先を考えればもっと気が重くなるはずなのに、他愛もないやり取りで笑みを浮かべてしまう自分がいる。
外で待っていた愛馬が不思議なものを見るような目を向けてくるので、咳払いして外套を深く被り直す必要があった。

「…さ、行こうか」

一人と一頭が動き出す。闇色を纏う彼らは、闇夜の中へとあっという間に溶けていった。
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