色々夢

□白雲を抱く
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鼻腔をくすぐる花の香りは優しく、先刻までのむせかえるような酒宴の記憶を和らげてくれる。
思わずという感じで詰めていた息を緩やかに吐いている隣人に、楊采はくすりと笑みをこぼす。
途端に非難めいた視線を寄越されたのはわかるが、楊采は今、茶の蒸し具合を見計らっているところなので大変忙しい。

「……楊采」
「もう少し待て。機を逃すと不味くなる」

花が開ききってしまうと、この茶は渋くなる。かといってあまり早くに淹れてしまえば味がぼやけてしまう。世話のかかる茶なのだ。
なので、余程の時でなければ淹れないものだというのを、目の前の男に教えてやるつもりは全くない。黙って味わって驚いておけと思う。

そうして楊采が差し出した器を受け取った趙雲は、ゆっくりとそれを口元に近づけた。猛将と称えられる武人のはずなのだが、僅かに目を臥せ、湿った唇から吐息を漏らすその様子には、そこはかとなく色気が漂う。
その色香を纏わせたまま、彼はゆったりと微笑んだ。

「……格別に美味い」
「疲れている証拠だな」

さらりと返して、楊采も自身に淹れた茶を口に含む。上出来、と内心で自画自賛しておいた。

つい前ほどまで、袁紹と公孫賛との会合が行われていた。
袁紹はまず、溌剌とまではいかずとも、なんら健康を損なったように見えない会合相手を見てたじろいだようだった。
それはそうだろう。彼が放っていたであろう間者は、公孫賛の病が重い事をきちんと報告しているはずだ。決してそれは嘘ではない。その報告の後で回復しただけなのだから。

彼がそこまで見抜いたかどうか知らないが、動揺を見せたのは一瞬で、すぐに人当たりの良い笑顔を貼り付けて取り繕っていた。
公孫越は言うまでもないが、公孫賛もまた、穏やかで御しやすそうに見えたのかもしれない。
穏やかで優しく情に脆いところはまるでどこかの猫族のよう。しかしそれだけの人物でないと、楊采は知っている。
彼とて一国を預かる身。それなりの経験があり、知識がある。曹操のような苛烈さはないのに、穏やかな笑みのままのらりくらりと話を交わすその手腕は、一体どこから計算でどこまで天然なのかと楊采の興味をひいた。

「楽しそうだな」
「うん、とても良い勉強だった」

袁紹の手口はある種定型で、これは楊采にとって予測の範囲内である。協力関係を申し出ておいて、内側からじわじわと干渉し、幽州を奪うか、あるいは他国からの侵略の際の盾にしてやろうという魂胆がまる見えである。
あれで言いくるめられるのは猫族くらいであろう。いや、劉備ならば見抜けるかもしれないので、もうはっきりと、騙されるのは関羽だけであると言ってしまいたい。

公孫越も、袁紹の企みには気づいているが、兄である公孫賛から実権を奪おうという長年の野望を成し遂げるのに利用しようとしたに過ぎない。それも、公孫賛の復活により潰えて今はうちひしがれているが。
ちなみに、公孫越に酌でもしてこようかと言ってみたところ、公孫賛も趙雲も真顔で止めてきた。冗談の通じない二人である。

「勉強…か。お前らしいな」
「悔しそうにしている袁紹も面白かったけどな」
「それについては、俺からは何も言わないでおこう」

趙雲は終始、公孫賛の側で警護についていた。袁紹側にも彼が連れてきた願良が居たのだが、一言も発する事なく終わったようだ。
まあそんな立ち位置だったので、袁紹の表情や心情の移り変わりは楊采よりもよく見えていたはずだ。答える趙雲は少し笑いを堪えるようにしているので、間違いない。

「何はともあれ、ひとまずは安泰だな」
「完全ではないから油断できないが…それもこれも楊采のおかげだ。改めて礼を言わせてほしい」

そう言って頭を下げようとした趙雲の肩を押さえるべく、楊采は腰を浮かせる。

「止めてくれ。私はちゃんと私の欲しい報酬を貰っているんだから」
「それでも、皆感謝している」

自然と近づいてしまった距離でさらりと言われ、楊采は無言で眉を寄せる。
椅子に座ったまま、じっと見上げてくる真っ直ぐな眼差し。実を言えば楊采は少しこの目が苦手だった。
この目は、見守ってくれたり厳しく攻め入られたりする曹操のものとも、劉備や関羽たちのような純粋無垢なものとも、起伏のある感情がそのまま現れる夏侯義兄弟とも違う。
優しさと逞しさが感じられるこの目に見つめられていると、女性として扱われているのが嫌でも分かって、どうすればいいか判らなくなる。それが、嫌な気分になるような扱いではなく、認められているのが伝わるだけに、とても戸惑う。
密かにそんな葛藤をしているところに、頼れだの側に居るだのと言われてしまうと、必死に隠している弱さを全部さらけ出してしまいそうで怖いのだ。
だからつい、なんでもないと首を振り、敬遠してしまう。

例えば。
兄のような、そんな立ち位置の人であれば素直に頼れたのかもしれなかった。
けれど彼はそんな立場の人ではない。

「……全く。勝手にしてくれ」

動揺を隠して捻り出した言葉はいつも通り素っ気なくて、それに対して安心する自分に少し溜め息をつきたくなった。
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