色々夢

□白雲を抱く
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それはとても些細な気付きだった。なので、今更思い返そうとしても浮かんでこないような出来事で、本当に何気ない事だったのだと思う。
そんな、ふとした時に、いつの間にか目を奪われていたのだ。

珍しい事もあるものだと、同僚や部下に指摘されて苦笑しか返せないほど、それは露骨に態度に出ていたらしい。
しかし、知ってしまったその全てを公にしてはいけないとここにきて咄嗟に口をつぐんでしまったのは、本来、己の立場を考えれば大罪に他ならない。

良心の呵責と、己の欲求との葛藤となり、趙雲はため息をつくばかりだ。
そんな彼の耳に届くのは、働く女たちのであろう軽やかな笑い声。他愛もない話をしているのだろうが、そこに混じる声のひとつについ意識を向けてしまって、慌てて視線を手元に向ける。

「趙雲様、どうされましたか」
「あ、いや…」

手にしていた盃を見るが、既に空になっていて、近くの瓶も何も入っていないようだった。

今日はこの村で収穫を祝う祭りがあり、彼はそこに招かれている。話しかけてきた村人が気付いて酒を追加しようとするのを手で制し、趙雲はゆっくりと立ち上がった。

「さすがに呑みすぎてしまったよ。酔い醒ましに、祭りの様子を見てきても良いだろうか」
「はい、是非!」

付いてきたがる人々をやんわりとかわし、趙雲は先程見送った背中をそっと追い掛ける。

身なり自体は、他の村娘たちとそう変わらない。長い黒髪は艶やかで、結い上げて可愛らしい飾りを留めている。すらりとして華奢に見えるが、所作はどこまでも優雅で気品がある。
それだけでも、確かに目を奪われる要素に溢れているが、彼の心を動かしている要因はそれではない。
視線の動きに無駄がなく、そしてその目の輝きは、彼が求めてやまないものだったのだ。

彼女は一人、井戸で水を汲んでいる。なんと声をかけるべきか迷って、結局当たり障りのない言葉しか出てこなかった。

「……もし…その、きみ…」
「……」

ちらりと、肩越しに視線が交わる。遠目に予感していた思いが、確信に変わった瞬間だった。
そして、身を翻した彼女がさっとその場から去ろうとするのを、全力で阻止にかかる。
逃げるだろうとは思っていたので、追い掛ける心積もりは出来ていた。それでも寸前で避けられたせいで手を掴み損ね、袖だけを引くことになってしまったが、趙雲の腕力であればそれで十分だ。
ぐい、と思いきり自分の方へと引き寄せれば、踏ん張りきれず、身を反転しながら彼女がよろけてくる。
出来れば、怪我が治りきっていないはずのその身にあまり負担をかけたくはない。もう一方の手で掬い上げながら、そのまま胸元にそっと抱き込んだ。
鎧などのないその身は予想よりずっと柔らかく、こちらの動揺が伝わないよう自制するのにかなりの集中力を必要とした。

「……楊采」
「っ…!」

ぴくり、と腕の中で身を震わせた彼女が、やがて諦めたように顔を上げる。
切れ長の、大きな黒い瞳は相変わらず美しく、趙雲は内心胸を撫で下ろした。何か悪さを企んでここに潜入している訳では無さそうだと、己の直感が告げている。

「どうして幽州に?」
「……いや、その……」

困ったように眉を寄せたその顔は、洛陽でもよく向けられていた気がする。そんなに困らせることをしているか疑問なので、今度ゆっくり追及したいと思う。

「あのさ、趙雲……逃げないから離してくれないか…」
「それは出来ないな。お前がここにいるなど、見逃す事の出来ない大問題だ」

問題にするつもりなど既に無いのだが、趙雲はあえてそう答える。案の定、追い詰められた楊采の表情に若干の焦りが見てとれた。

「よ、様子を見て回ってるだけだ。お前たちに何かするつもりはない」
「そうだろうか。村の男たちもお前ばかり見ていたし」
「は? 旅の途中で立ち寄っただけの異人だしな、まぁ珍しいんだろう」

分かっていないな、と趙雲はため息をつく。そして、悪戯心が芽生えて腕にこめる力を強くした。

「わ、ちょ…」
「お前は……やはり女性だったのだな」
「!」

途端に彼女の表情に悲しみが広がるのが見えて、趙雲は慌てて俯きかけた頬に手を添えた。

「待ってくれ、責めているのではなくてだな、その…」
「止めてくれ、どんな言葉も聞きたくない」
「違う!」

振り払われそうになる手にぐっと力を込め、切実な思いを抱えたままこつんと額をつける。手に伝わる頬の温度が上がったのは気のせいではないだろう。

「……お前なら大丈夫だろうと思ってはいたが、今頃どう過ごしているだろうと思っていたんだ…元気そうで良かった」
「…おい、なんか話がずれた気が…ていうか近…」
「静かに」

ひっそりと交わされる会話は二人にしか聞き取れまい。
だから、端から見れば今この体勢がどう見えるかなど、分かりきっている。むしろ趙雲はこの時、分からせてやりたかったのだ。
がたごとと、あちらこちらで物音がして、複数の足音が散り散りに去っていく。その音が完全に消えるまでたっぷり待ってからようやく離れると、楊采は肩を震わせてこちらを睨んできた。

「お・ま・え・なぁっ!!」
「ははは、すぐに村中の噂になるだろうな」
「どうするんだよ!? お前は趙雲なんだぞ!?」
「そうだな」

おかしな台詞だが、彼女の言いたいことは分かる。だから、趙雲はこの村の祭りに招かれた瞬間から考えていた言葉を告げることにした。

「村に滞在できないなら、俺の家に泊まればいい」
「!?」

目を見開いて絶句する楊采に、彼はとても晴れやかな笑顔を向けて手を差し出した。
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