色々夢
□白雲を抱く
17ページ/37ページ
12
隣から劉備の健やかな寝息が聞こえるのを確認して、楊采は慎重に起き上がった。
大人しく眠ってもらうべく側にいただけで、急ぎの出立に向けて確認事項が山積みなのである。
足音を立てぬよう忍び足で床を進むと、その床に自身の影が落ちるのを見て夜空に月が上っているのに気付いた。
つい先日満月になったばかりなのでまだほとんど円形を留めている。明るいそれを見上げ、最後にもう一度劉備の気配を探ってから部屋を出た。
指定しておいた場所ではたくさんの火が焚かれ、既に兵士たちが動き回っており、楊采が近付くや現状の報告に走ってくる。
一つたりとも聞き漏らさないよう慎重に頷きながら、楊采は自分の馬を呼び寄せた。
この黒馬はとても強くて賢いのだが、楊采以外の人間にあまり懐かないので一般の兵士には世話を任せられない。
楊采自ら餌を与え、毛並みを整えてやると、近々動きがあることを察しているのかやる気に満ち満ちた目で鼻先を擦り寄せてきた。
「今回は戦じゃないぞ。曹操様を迎えに行くだけだ」
なんだ、と言いたげに引っ込んだ鼻先を撫でてやり、にやりと笑う。
「だが、その後はしっかり見せ場を作るから、よく力を溜めておくんだぞ」
鼻息が荒くなり、水を飲む速さが上がった。やはりこの馬は人語を解しているのだとつくづく思う。
よしよしと叩いてやり、兵士の報告の続きを促した。
が、一角のざわめきに別種の空気を感じて、暗闇に目を凝らす。すぐに、見覚えのある長身を発見した。
「こんな時間にこんな所で何をしているんだ、趙雲」
数時間前に一緒に茶を飲んだ相手である。彼ならば楊采がここで出立準備に追われている事を知っていてもおかしくないが、まさかやって来るとは思わなかった。
そんな驚きと共に投げた問いかけに、困った声が答える。
「邪魔をしてすまない。だが、食糧を持ってきたので受け取ってもらえないか」
「……いや、しかしそれは」
残された民と彼らの軍を支える為に必要な食糧であろうに。
彼が運んできた荷は予想以上の量で、さすがに軽く受け取れる基準を超えている。
「あの後、公孫賛様が他軍と今後について話し合われたんだ。それで確保した分だから問題ない」
「…そう、か」
聞けば、各軍保護した民を支援しつつ撤退するのだそうだ。どの軍も退く機会を探りあっていたところだったので、話し合いは速やかに終息したらしい。
暮らしていた街に住み続けたいと願っても、この街が復興するにはまだ相当な年月が必要になる。兵士を派遣する形にして支援を続ける国と、民を自国へ招く国とで別れるようだ。
「では、ありがたく頂こう」
早速指示して、兵糧係の兵士たちに運ばせる。いまだ立ち尽くしたままの趙雲との間に、沈黙が流れた。
「…趙雲」
「…その、無理するなとは言えないが…あまり、皆に心配をかけないようにするんだぞ」
「……わかってるよ」
すっかり世話焼きになってしまった趙雲の言葉に、ため息混じりに返しておく。
次に顔を合わせる時は、こんな会話をする余裕などないかもしれない。そんな事は、二人とも分かっていた。
なんと言うべきか迷って、楊采はそっと趙雲を見上げた。
敵愾心の沸きにくい、不思議な相手である。根本が人たらしなのだろうが、性格や能力からして曹操が気に入りそうだと思う。彼ならば、曹操の威圧にも負けず堂々と渡り合えそうだ。
趙雲は趙雲で、楊采ではなく彼女の馬の方に目を向けていた。馬も彼が気になるのか意識しているようだ。
「珍しいな、こいつはあんまり人に懐かないんだが」
実は劉備や関羽には懐いたのだが、そこはもはや猫族全体を特殊な例として除外して数えたいところだ。彼等は心根が素直すぎて、この馬でさえ警戒の必要なしと破格の判断を下してしまったのである。
「そうなのか。戦場で見かけたときから立派な馬だと思っていたが、近くで見ると本当に素晴らしいな」
「私のだから欲しがってもやらないぞ」
冗談めかして言ってやると、趙雲も穏やかに頷いた。
「それは残念だな。ところで、撫でてもいいか」
「ん? 少しならな」
楊采が拒む様子を見せなければ馬も大人しくしているはず。そう思って黒馬に目を向けた楊采は、しかしそのままの状態で固まった。
「……おい」
「少しならいいんだろう」
趙雲の手は馬ではなく楊采の頭を撫でていた。
にこにこと悪気の欠片も持っていない笑顔で返され、楊采は顔をひきつらせた。
「あのなぁ!!」
「これから大変だろうが、気を付けろよ、楊采。お前と色んな話が出来て良かった」
「……っ」
急に真面目に言われ、咄嗟に罵倒の言葉を飲み込んでしまった。
これか計算ではないのだから天然人たらしは恐ろしい事この上ない。がっくりしながら、楊采も仕方なく頷いてやる。
「はいはい、私もだよ……さっきの食糧の件、公孫賛様に私が感謝していたと伝えてくれ」
これ以上は無駄だろうと、わざと冷たく話を断ち切る。苦笑する気配と共に、彼はようやく手を退かして短く答えを返してきた。