色々夢
□白雲を抱く
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その夜、楊采はじっと考え込んでいた。
董卓追撃に向かった本隊敗走の事実を知っているのは、まだ、楊采と彼女の兵だけである。
今後どう動くべきか、流れは既に頭の中で組み上がっている。しかし、他軍にうまく切り出す言葉が見つからなかった。
曹操が負傷していると聞いている以上、本当はすぐにでも駆け付けたい。しかし、それを許される立場では、もうない。望んで立った場所なのに、時々その立場がもどかしくなる。放り出してしまえれば楽であろうが、そんなことをすれば曹操は二度と側に置いてくれないだろう。
「…はぁ」
吐き出した息は重い。吐いた分だけ体が軽くなるわけでもない。このまま悩んでいても焦りが募っていくだけなのだ。
という事を延々と言い聞かせてばかりいる彼女の視界に、白い猫耳がひょこりと飛び込んできたのはその時だった。
「どうしたの?」
「劉備殿…」
無垢な眼差しを向けられて、楊采はしばし目を泳がせた。再びつきそうになった溜め息を飲み込み、言葉を選びながら話すことにした。
「…実は、急いで関羽たちに合流したいなと思ってるんですよ」
「そうなの? じゃあ早く行こうよ!」
その答えが返ってくるのは当たり前である。分かっていてこの純粋無垢な少年に言わせている自分の狡さに罪悪感を覚えながら、楊采は更に続けた。
「けれど、この街の事も放ってはいけないんです。合流したら私たちはきっとこの街には帰ってきません」
「そうなの?」
きょとんと首を傾げたが、劉備はすぐ、明瞭な回答をくれた。
「じゃあ、公孫賛さまに、お願いしようよ!」
「ん?」
楊采は、この白ふわ猫から突然その名が出た事に驚いたのだが、どうやら趙雲が会う度に公孫賛について吹き込んでいたようだ。計算しての事なのかどうかは分からないが。
「こまったら、いつでも来ていいって、言ってたよ」
「…そうですか」
空の色を見る限り、予告していても訪問を喜ばれる時間ではない。が、楊采は立ち上がっていた。これ以上悩んでいても仕方ないし、素直に彼の提案に乗ろうと思ったのだ。
「では、お願いしにいきましょう、劉備殿」
「ぼくも?」
「ええ、一緒ですよ」
劉備と公孫賛はこれまでしかと顔を合わせたわけではない。この機会に連れていった方が良いような気がしたのだ。それに彼は猫族の長なので、同行していて何もおかしくない。
嬉しそうな劉備の手をとって部屋を出た。
拠点を大きく二分した反対側が公孫賛軍の陣である。
全身黒ずくめの他軍の将と全身白ずくめの猫族の少年が手を繋いでやって来る様子は、いかに公孫賛軍の兵士であっても衝撃的な光景であったらしい。遠巻きな視線は、敵視とまでいかなくとも必ずしも好意的なものばかりではない。
「楊采! どうしたんだ?」
兵士から話を聞き付けたと思われる趙雲が走ってくるのが見えて、非を詫びる為頭を下げる。それを見てか、隣の劉備もぺこりとお辞儀した。
「こんな時間にすまないが、公孫賛様に取り次いで貰えないだろうか」
「公孫賛様に…?」
趙雲は、楊采と劉備の顔を交互に見て何か感じたのか、真剣な表情で頷いた。
「分かった。すぐに案内しよう」
「ありがとう」
空いている部屋で待つよう指示を受け、二人は素直にそれに従う。趙雲の部下らしき兵士たちが、ほどなく見張りにやって来た。
彼の言う『すぐ』は本当にすぐで、しかも公孫賛自ら、二人の元に足を運んでくるという予想外の登場だった。
「公孫賛様、申し訳ありません」
「良いんだよ、急ぎの用なのだろう?」
色々な意味を含んだ謝罪の言葉を穏やかに流し、公孫賛は椅子に座るよう促した。趙雲は彼のすぐ後ろに控えている。
「実は…」
迷いつつも、楊采は結局今ある情報のほとんど彼に話す事にした。面倒な駆け引きをしている間がないから彼を頼ると決めたのである。
途中口を挟むことなくそれを聞き終えた公孫賛はほんのわずか考える素振りを見せた後、一つ頷いた。
「そういうことであれば、君たちはすぐにここを発ちなさい。あとの事は私たちが引き受けよう」
「…え、あの」
「そして、落ち着いたら連絡をくれると嬉しい。もしも君たちの元で暮らしたいという民がいた時に、気兼ねなく送り出してあげたいからね」
「…わかりました」
打算的な言葉には聞こえなかった。これが曹操であればもっと条件をつけてくるであろう場面である。驚きは勿論、内心呆れながら楊采は礼の言葉を口にする。
すると公孫賛は、真剣な眼差しで少し身を乗り出してきた。
「ただ、今ここで一つ私からの願いを聞いてくれないだろうか。それを条件としよう」
「……何でしょう?」
実は、見えていたので答えが分かっていたのだが、一応聞き返した。
にこにこしている趙雲が、楊采の前に茶器一式を差し出す。
「そなたの茶は絶品だと趙雲が頻りに言うので、私もぜひ味わいたいと思っていた。良いだろうか」
それまで大人しくしていた劉備が「ぼくも!」と元気よく手をあげた事で更に場が和むのを感じながら、楊采は微笑んで茶器に手を伸ばしたのだった。