色々夢
□白雲を抱く
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洛陽は燃え落ちていた。
董卓が放った炎があっという間に大都市を飲み込み、逃げ遅れた人々ごと焼き尽くしたのだった。
「楊采」
怒りに震える曹操が紡いだその声を逃さず、楊采が馳せ参じる。同時に、夏侯惇たちも駆けつけている。肩越しに鋭い視線を受け、楊采は頷きを返す。
「董卓軍は遷都を目論み、多くの民を連れて移動しているようです」
行き先は、おそらく長安。かつての都があった地である。虎牢関で呂布たちがあっさり退いたのは、既に遷都の準備が整っていたからなのだろう。つまり、洛陽炎上計画はその時点で決まっていたか、既に実行に移されていた。
各軍の代表たちが皆揃って言葉を無くし、ただ目の前の光景を眺めている。兵士たちも一人残らず、戸惑いと絶望を抱えて街を見つめていた。
「董卓を追う。準備にかかれ。整い次第出発する」
「はっ」
早速動こうとする三人を、曹操が呼び止める。怪訝な表情で待つ彼らに告げられたのは、衝撃的な内容だった。
「楊采は洛陽に留まれ」
「!」
驚きの声を上げそうになって、三人は押し黙る。楊采自身も、自分の怪我の重さを自覚していない訳ではない。何も言い返せなかった。
「お前は今ここにいる誰よりもこの街に詳しい。残って救助にあたるのだ」
「……はい」
曹操の言う事は一理ある。曹操軍の中でも特にこの街に精通しているのは楊采である。己の領地で暮らしていた公孫賛や袁紹たちなど比べようがない。
俯いた楊采の頭をくしゃりと撫で、曹操が立ち去っていく。
気遣わしげな視線を背中に感じたが、顔を上げた楊采は気づかなかった事にして笑って見せる。
「楊采…」
「さあ、準備しよう」
「ああ」
頷く二人が、ぽんと肩を叩いて自軍の元へ走っていく。その様子を見送りながらも、楊采の目は既に別の探し人を求めている。その相手はすぐに見つかって、楊采は音もなく彼女に近付いた。
「関羽!」
「楊采…」
彼女もまた、この惨状に心を痛めているのがその表情からよく分かる。彼女は、楊采がこの街の人々と親しくしていた事を知っている。何と声をかけるべきか迷っているのだろうと思われた。
「関羽、聞いてくれ。曹操様はすぐにここを発って董卓を追う。君はどうしたい?」
「え、わたし、は…」
揺らいでいた大きな目が、やがて意を決したように楊采を真っ直ぐ射抜く。
「…わたしも、行くわ。こんな事をする人を許してはおけないもの。出来れば劉備はここに残っていて欲しいのだけど」
「…ならば、私が預かろう」
「えっ」
驚く彼女に、肩をすくめて先程下された命令を説明する。楊采の怪我の状況を知る関羽はすぐに納得したようだった。
「分かったわ。楊采の分まで頑張るから、劉備をお願いね」
「ああ。けど無茶はするな。劉備殿と一緒に待っているよ」
「ええ」
関羽が、他の猫族たちに知らせる為に走っていく。またそれを見送り、楊采は長いため息を吐き出した。
「…それで、いつまでそうしているつもりだ?」
目をやった先、忙しく動き回り始めた兵士たちの中で一際目立つ長身がある。
趙雲である。随分前からそこで話しかける機会を伺っているのは分かっていたが、楊采が気づかないふりをしていたのだ。
「すまない、立ち聞きするつもりは無かったんだが」
「別に良いよ、聞かれて困る事は話してない」
楊采が怪我をしている事を、この男には話していない。話すつもりもなかった。近付いてくるのを待って、改めて曹操軍の中で自分だけが残る事を告げる。
「重ね重ねすまないが、我々は進軍には参加しない」
「ああ。恐らく…進軍するのはうちだけだろう」
未だに上がり続ける黒煙を見て、楊采は口を閉ざす。
脆い繋がりが、都の惨状を目にした事で一気に崩れてしまった。連合軍はこれで解散だ。
考えなければならない事がたくさんある。しかも、何よりも優先しなければならない事が目の前にあるのに、何から手をつければ良いか分からないくらい、この惨状に滅入っている自分がいる。
「さっき関羽に言っていたが、お前が一番この街に精通しているのは事実だろう。だから…俺はお前の指示に全面的に従おうと思っている」
「は?」
「お前の部下ほどではないかもしれないが、俺を存分に使って欲しい」
お前の部下は優秀そうだからな、と朗らかに笑う趙雲を暫く見上げてみたものの、その笑顔からは言葉通りの意思しか読み取れず、楊采は思わず吹き出してしまった。
「数々の武勇で名声を博するあの趙将軍を部下のようにか、くくっ…正気か?」
笑いながら問いかけると、趙雲は困ったように首を傾げた。
「公孫賛様も賛成して下さったんだが…そんなにおかしいだろうか…」
「そりゃあな。ま、せっかくだからありがたく使わせてもらうけど」
「ああ。何でも言ってくれ」
と言われても、他軍の将をいきなり顎で使うのは如何なものかと思うので、一応指示という名目で頼み事をしてその場は別れた。
まずは進軍の準備、そして劉備を預かって、洛陽の救済と復興について考えるのはそれからである。
自軍の兵士に召集をかけようと歩いていると、優秀な部下たちは既に集まって待機していた。楊采は笑みを浮かべながら、彼らに向かって口を開いたのだった。