色々夢

□秋水の誓い
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虫の鳴く声が下方から聞こえている。
落ち着いた、静かな夜だ。
広くはない楼の上で、二人は淡々と話を進めていた。

二人を照らす光と言えるものは、月明かりと、楼の下の篝火だけ。
しかし、曹操には相手の顔がよく見えている。昔から、夜目は利くのだ。

袁術亡き後の南陽の平定は容易かった。しかし、その時間を有効に利用したのが袁紹である。
幽州を始め、曹操の手の届かぬ国を次々吸収し、着実に大きくなった彼の軍がまた国境を侵しに来ている。

今度こそ、決着がつくまで戦う事になる。

人払いをした楼の周囲には、当然だが人の気配がない。
本来であれば悠然と楽しめるはずの美しい月夜も、今は何の意味もなさない。

語り合うのは新たな軍隊の編成、それぞれの役割や配置の確認、前線にいる各将の働きぶり、とりわけ猫族部隊の働きについて。
次から次へと出てくる話題がどれも戦の事ばかりで、尽きる気配がない。

不意に笑みをこぼした曹操を、楊采が怪訝な顔で見上げた。

「如何されました?」
「いや…随分と大所帯になったと思ったら可笑しくなってきたのだ」
「まだまだこれからですよ」
「ああ、分かっている」

望み通りに手にした今を後悔する事はない。故に過去を振り返るつもりはないが、楊采とたった二人きりで始まったという事実を忘れる訳ではない。

目の前の楊采は、正体を知らぬ者には中性的な雰囲気を纏う青年でしかないが、曹操には幼い頃の面影がありありと見てとれる。
貧しい農民の、小さな小さなあの娘がよくぞここまできたものだ。

楊采無くして今の自分は無かっただろう。
しかしそれを伝えれば、

「私が居なくとも曹操様はいずれ天下をお取りになっているでしょう。その器をお持ちなのですから」

などと真顔で返してくる。
もし、仮にそうだったとしても、もっと時間がかかっていたに違いない。
だからもう少し、自覚を持っていて欲しいのだが。

「…今、できるのはこれくらいでしょうか」
「……良かろう」

出された提案に渋々頷いてやると、楊采が嬉しそうに笑みを浮かべる。
親に誉められた幼子のような反応を見て、曹操は思わずその眉間を弾いていた。
額を押さえてうずくまった楊采からくぐもった悲鳴が漏れる。

「ぐうぅっ…けっこう痛い…っ」
「調子に乗るな。最善であると認めているわけではない」
「し、しかし…」
「分かっている。だが、非常に危険な賭けだ」
「はい」

神妙な面持ちで、楊采が頷いている。自分を見上げるその真っ直ぐな目に、偽りがあった事は一度もない。
それは、曹操と楊采の間にある、信頼の証だ。

「必ず成功させなければ、どうなるか勿論分かっているな」
「はい」
「それでもその意志を通すのだな」
「はい」

即答できるのは迷いがないという何よりの証拠。
曹操は苦笑いを浮かべる。
きっと、随分と前から決めていたのだろう。楊采のこれまでの行動から、それがよくわかる。

「以前のように、己の命を軽んじるような行動は絶対に許さぬ」
「はい…反省しています」
「それで、夏侯惇にはいつ言うのだ?」
「え!?」
「お前がまた前線に出ぬとなれば、この先あやつの負担が増すであろう」
「あ、あー…そ、そうですよね!」

何を勘違いしたのか激しく動揺するのを眺め、曹操は脇息にもたれて返答を待つ。
彼の心中を察した楊采が不満げに口を尖らせた。

「曹操様…遊んでますよね」
「何を言うか。私は当然の事を言ったまでであろう」
「……」

夏侯惇は、ちょうど今、戦況報告と軍の再編成について説明をする必要があり、都へ戻ってきていた。
明日、彼が出立する時には曹操も共に戦場に赴くつもりだ。
いつもなにも、もし話をするならこの後訪ねる以外に機会が無いのだが、戦術を考える時より悩んでいる。

「まあ、無理強いはせぬ」
「はい…」

ひどい渋面である。
仕方なくそれを肴に酒を煽る。その間、曹操の脳裏にも従兄弟の顔が浮かんでいた。

楊采がこれからの事を正直に告げたら、彼は怒るだろうか。それとも、聞き入れるだろうか。
彼女が悩んでいるのはきっとそこだろう。
夏侯惇は、楊采と出会って確かに変わった。今も、著しい成長を遂げている。この度の戦を通じて更に飛躍する事は間違いない。
それがどんな形で心境の変化として現れるかは、誰にもわからない事だ。

「曹操様、まだ暫くこちらにいらっしゃいますか?」
「お前はもう行くか?」
「はい。行って参ります」
「うむ。行って来い」

その一言に様々な意味を込め、曹操は快く楊采を送り出した。
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