色々夢

□秋水の誓い
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「ふぅん、まだ退かないか…あの腹黒いい加減にしてくれないかなー」

それは、袁紹軍との小競り合いを制して帰ってきた夏侯惇の報告を聞いての言葉である。

「袁紹の事をそう呼ぶのはお前くらいだろうな」
「そうか? けど皆も思ってるんじゃないか?」

茶を飲みつつ楊采が首を傾げた。
さあな、と適当に返して夏侯惇も勧められた茶を口に含む。
美味い。彼女の茶を飲んだのは久しぶりのような気がした。

呂布との戦いを終えて兗州に戻ってきてから、楊采は一切の戦に参加していない。曹操の代理として各所に司令を出しているのみだ。
とは言え、領土が広大になれば防衛地点も多くなる。その全てを把握して指示するなど、確かに曹操を除けば彼女にしか出来ない事ではある。

夏侯惇はほとんど前線に立っているので、許都に帰って来たのは数週間ぶりだ。
戦況からして、またすぐに戦場へ戻らねばならないだろうが。

「徐州の国境では袁術の動きがやや活発だ…袁家の二人、仲悪かったくせに、ここに来て結託したようだな」
「間者を使っていないのか」

珍しいと思い訊ねると、途端に楊采の表情が曇る。

「何度か送ったよ。でも…帰ってこなかった」
「……そう、か」

取り込まれたか、殺されたか。
楊采が厳選して送り込んだ兵ならば裏切りは考えにくい。恐らく後者だろう。

だとすると、冀州はもちろんだが、さらに北方にある幽州の様子は全く分からなくなったと思われる。
ただ、徐州に滞在していた時入った情報では既に、国の機能のほとんどが袁紹の手に落ちていたはず。
わざわざ聞かずともかの国の辿る道が見えて、夏侯惇もそこは口をつぐむしかなかった。

「では…今は目の前の戦だな」

気を取り直して、自身が担当する防衛拠点について話題を戻す。

彼がいるのは、言わば防衛の最前線。袁紹軍が攻め込んでくるとしたらまずその拠点になる。
ここのところ頻繁に小競り合いが起こり、兵は相当な緊張を強いられていた。

「うん。これ以上長引くと兵の士気も保ち切れないし…ここらで大きく動かしたいな」
「まさか、こちらから攻めるつもりか?」
「いや。あくまで退かせるのが目的だし、下手に突っついて本気で来られても困る。防衛の姿勢は崩すなと曹操様からも命じられているしな」
「何か策があるのだな?」

訊ねると、それにはニヤリという含み笑いと共に頷きが返ってきた。

「きっと、腹黒殿もそろそろ堪忍袋の緒がすり切れてくるはずだ」
「…名のある将を据えて攻め込んでくる、か」
「そう。何度攻めても夏侯惇がうまく凌ぐから、随分焦れてるだろう。二虎将軍が出てきた時こそ狙い目だ」
「あいつらか…さすがに俺一人では手に余るな」
「うん。今、夏侯淵をここに呼び戻しているから、二人で組んで貰いたい。で、想定される陣形がいくつもあるんで先に意見を聞きたいんだ」
「……」

夏侯惇は曖昧に頷いた。夏侯淵とならば安心して戦に出られる。だからその事に特に不満はない。
しかし、頭をよぎったとある思いが口をついて出そうだったので、一瞬そちらに気を取られただけだ。
だというのに、楊采は目敏く気付いて顔を覗き込んでくる。

「どうした、何か意見があるか?」
「……いや」
「言うなら今のうちだぞ。納得いかない策を押し付けたところでうまく行くとは思えん」

国境付近の地図を広げながら、楊采が眉を寄せた。
彼女らしい言い回しに、仕方なく、夏侯惇は目を反らしつつ、呟くように言う。

「…お前は出んのか」
「ん?」
「……」
「……」

互いの間に微妙な空気が流れる。

楊采が戦場に出れば、味方の士気は確実に上がる。
何より、夏侯惇自身が再び共に戦場に立ちたいと願っている。

だが、楊采が今まで以上に多忙なのも分かっている。いくら決め手が欲しいと言っても、一つの戦に集中していられる立場ではないのだ。

これでは、自分がただわがままを言っているだけではないか。
もう口に出してしまったがそんな思いが浮かび、顔が赤くなっているのが自分でも分かる。

「……すまん……今のは、忘れろ」
「……うん、そうする」

笑われるかと思いきや、地図に目を向けようと俯く寸前の彼女の表情は、どこか寂しげに見えた。
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