色々夢

□秋水の誓い
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入るぞ、というかけ声と共に、夏侯淵が部屋へ入ってくる。不機嫌な顔と彼の両腕いっぱいの書物の山を見て、楊采は苦笑した。

「悪いな、夏侯淵」
「そう思うなら病人のくせに仕事するな。本当にこの量終わらせるのか?」

楊采が見ているのは、領内を見て回っている兵士たちからの報告だ。
どんな些細な事でも知らせるようにという彼女の命令通り、毎日事細かな情報が山積みで届く。その全てに目を通し、纏めあげるのが最近の楊采の仕事である。

「うーん、まぁ、なんとか終わると思うよ」
「マジか…」

董卓討伐の遠征から、既に数ヵ月の時が経っている。
曹操はあの後、董卓討伐を諦め全軍に撤退を指示した。実は、楊采たちと時を同じくして曹操たちも船上で奇襲を受けていたのだ。結果として曹操も重傷を負い、兵の大半が失われ、撤退を余儀なくされてしまった。
不幸中の幸いと言えるのは、長安に遷都したばかりの董卓もすぐに動き出せないという事。

そこで、曹操は兗州に目をつけた。黄巾賊に怯え太守が逃げ出した為、荒れ果てていたのだ。
たとえ手勢は少なくとも、軍の兵士として教育され、先の戦を生き延びた曹操軍にとって、農民上がりの武装集団を黙らせるくらいどうということはない。

民が、曹操軍を受け入れない理由はなかった。
しばらく戦はないが、いずれまたくるその日まで、今は新しく手に入れたこの地で傷を癒し、兵力を蓄える事に専念するのみだ。

「なあ…兄者とは話したか?」
「……いや。ここ数日会ってないな」
「……」

夏侯淵が呆れたような、苛ついたような目で楊采を見る。
楊采は肩をすくめた。

毒矢を受け意識を失った後の事を、楊采は夏侯淵からしか聞いていないが、曹操の元に合流した時、夏侯惇に抱えられていたらしい。まあ、あの状況ではそれしか方法が無かっただろう。逆の立場であればそうする。

その夏侯惇とは、こちらに来てから一度だけ話をした。
命懸けの撤退中、彼は関羽たち猫族を軍から離脱させたのだ。その事で揉めた。と言うより一方的に楊采が責めた。

「兄者はあの女に『好きにしろ』って言ったんだ。それであの女は村へ帰った。兄者が責められるなんておかしいぞ」
「何度も聞いたよ、夏侯淵。分かってるさ。あれは八つ当たりだった」
「命助けて貰っておいて八つ当たりかよ!」

夏侯淵の言うことはもっともである。夏侯惇がいなかったら、楊采は死んでいたか、運良く助かったとしても身体は自由を失っていたかもしれない。いや、まず助からなかっただろうが。

だが、目覚めたばかりの楊采は、曹操の一大事に何の役にも立てなかった自身への怒りと、夏侯惇に自分が女である事が知られてしまった事への動揺と、とにかく様々な事が起きすぎていつものように感情の制御が出来ていなかった。
だから、悪いとは思っている。とは言え、今後夏侯惇とどう接していくべきか珍しく迷いが出て、なかなか踏ん切りがつかないでいた。

「とにかくちゃんと兄者と話し合え! 良いな? 毎回こうやって荷物運ばされてる俺の事も少しは考えろ!」

動けない曹操の代わりに、平定を指揮したのは夏侯惇で、今も表立って動いているのは彼である。
楊采は余った仕事を請け、補佐しているに過ぎない。夏侯淵は、見事に二人の仲介をさせられている訳だ。

「はいはい、悪かったよ。とりあえずこれ、兄者に渡しといて」
「おい! 聞いてなかったのか!?」
「……後で行くから」
「絶対だぞ!絶対だからな!」

何度も念を押し、夏侯淵が去っていく。遠ざかる荒い足音を聞きながら報告書を手に取り、表情を曇らせる。
仕事で手一杯なのは事実であるから意識して避けている訳ではないのだが、時間が経てば経つほど、どんな顔で会えばいいか分からなくなる。

「どうするかなー…」

ようやく少し動かせるようになってきた肩をさする。毒矢を受けたそこが痛む度に、あの時の事を思い出す。
楊采が女だと知ってしまった彼の、傷付いた顔ばかりが浮かぶのだ。

「何回あいつを傷つければ良いんだろうな…」

報告書を放り出し、楊采は天を仰いだ。
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