色々夢
□秋水の誓い
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汜水関はあっけなく落ちた。
夜は戦功を祝う宴が開かれる事となった。
とは言え、明日には虎牢関攻めであるから、あまり大騒ぎにはならないだろう。
特に、曹操たち諸侯は親睦を深めるなどと称して腹の探りあいになっているはず。側近なのだから楊采も出席すべきだが、正直、そんな恐ろしい事をしている曹操を前に平静を保てる自信がない。
「こっわいなー。すっごい良い笑顔で嫌味とか言ってるんだろうなー」
宴で皆が出払うなか、楊采は一人、幕舎で地図を眺めていた。
華雄戦死の報を受け、次に董卓が送り込んでくるであろう兵の数は当然こちらを上回るはず。
となれば先の戦いとは真逆、今度は総力戦となるだろう。しかしそこへ呂布が配置されたりすると、戦局はかなり厳しくなる。
「楊采、いるか」
「ああ、いるよ」
椅子から立ちあがって出迎えたが、入ってきた夏侯惇は声から察する通り不機嫌極まりない様子であった。
「こんな時間にどうした？ 宴、抜けてきたのか？」
「…明日の策を考えていたのか」
「え、ああ。考えるって程じゃないが…地図は頭に入っている方が良いだろう？」
宴に出ろと言いに来たのかと思っていたが、そうではないらしい。楊采が広げていた地図に目を落とす夏侯惇は、いつもより遥かに静かだ。
「夏侯惇？」
彼は無言のまま、楊采が座っていた椅子を占拠する。最低限しか物がない幕舎の中だ。楊采は仕方なく寝台の方に腰かけた。
「…お前は、十三支の女を随分買っているんだな」
「関羽？ 女の子なのによく頑張ってるよね」
「……昔から、お前はそうだ」
「ん？」
話が見えなくて、楊采は首を傾げる。夏侯惇の強い眼差しが、ようやくこちらに向いた。
熱情に溢れる双眸は彼の真っ直ぐな性格がよく表れている。それが、今は少し翳って見えた。
「同じものを見ているようで、いつも俺とは別のものを見ている。同じ戦場を駆けているのに、別の場所で戦っているかのようだ」
「……夏侯惇、それは」
「分かっている。それはお前が、軍師として冷静に戦の流れを見ているからだと。だが、俺は…！」
そこまで言って、彼は感情を落ち着かせるようにゆっくりと息を吐き出した。
「俺の武は、あの女より劣るのか」
「夏侯惇…」
今日の関羽の活躍は、彼の自尊心を酷く傷付けてしまっていたらしい。
「ふ…そうだよな。俺はお前に助けられなければ、華雄の槍を受けていたかもしれん。そんな相手を、あの女は一撃で討った」
「夏侯惇…落ち着け」
楊采は、静かに立ち上がると夏侯惇の肩にそっと手を置いた。
「良いか、お前の力がなければ曹操軍がここまで強くなることは無かった。その武は曹操軍になくてはならないもので、兵の模範となっている」
「……」
「気休めなんかじゃない。だからこそ曹操様は夏侯惇を連れて黄巾賊討伐の遠征に向かわれたんだ。ずっと前から曹操様にお仕えしてきた私を差し置いてだ。それが本当は、私にとってどれほど悔しい事か考えた事はあるか？」
「！」
留守を任された、と言えば聞こえは良いかもしれない。だが本当は、誰よりも近くで曹操を守りたいと思っていた。皆と戦場で戦いたかった。
そのくすぶる思いをずっと抱えたまま、あえて一歩引いて指揮官に徹してきた。
久々に軍師の役割を封じ、ただの武将として戦に出ると思って、昨日は珍しく緊張した。けれど、今日実際に戦場に出て、そうではなかったと知り、少し、安心している自分に心底腹が立った。
いつの間にこんなに弱くなったのだ。
こんなに弱くては、もう、昔のように闇雲に戦場を駆け回る事は二度とないのかもしれない。
「曹操軍はこれからもっと強大になる。もっと多くの優秀な将兵を取り込んでいくんだ。猫族もその一つに過ぎない。それをこの戦で証明する事を、私は最優先した。だがそれは決して夏侯惇の武をないがしろにしているという事ではない」
「しかし…」
「曹操軍では強さと結果が全て。生まれも育ちも性別も関係ない」
常日頃から曹操が皆に言う言葉だ。
曹操は、自身の力で今の地位を手にした。
強さこそ正しい。
この信念があるからこそ、女である楊采を側に置いてくれるのだ。
「曹操様は、夏侯惇が日々鍛練を積み重ね、強さを求め続ける姿勢を評価され、期待されている。十分じゃないか実際強いのだしな。だから、いつまでも十三支だなんだとくだらん差別意識にとらわれるな。そんなもの棄てて、もっと上を目指せ」
「…くだらんだと？」
「ああ。くだらんよ」
きっぱり言い切った楊采を、夏侯惇は無言で見つめる。
彼がその意識を変えてくれなければ、女である楊采もいずれ夏侯惇とぶつかる事になる。
彼を変える事は関羽たち猫族の受け入れの為だけでなく、楊采の為でもあるのだ。
「夏侯惇…頼む。今すぐとは言わないが、受け入れて欲しい」
「……」
「…ちょっと宴の様子を見てくるよ」
夏侯惇の強い視線と沈黙に耐えられず、楊采はそそくさと立ち上がった。
ではな、と言い残して、文字通りその場を逃げ出す。
「……。なぜ…お前がそのような傷付いた顔をするのだ…楊采」
少し後に幕舎を出た夏侯惇の呟きは、届かない。