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城は段々と火に包まれ始めていた。
煙を吸わないようにしながら、二人手を繋いだまま急いで駆け抜ける。

「お市様、飛びますよ!」

市が頷く。ルカも覚悟を決めるべく前方を見やった。
この先を降りると本陣がある。そして、市がこのまま向かえば、長政の命は──

「…高ぁっ!」

思い切って飛び出したものの、降りたら二度と登れなそうなこの大きな段差は、ルカの想像を超えていた。
必死にバランスを取る彼女の横で、市は難なく着地を決めた。

「平気…?」
「大丈夫、です…」

ぎこちなく立ち上がり、すぐに気付いてぎょっとした。
そう遠くない距離に、光秀がいたのだ。
彼は「おやおや」とあまり困ってなさそうに呟く。

「今更何用です?」
「…長政様は、どこ…?」

声を震わせて市が尋ねる。光秀が楽しそうに笑った。

「この後に及んでまだ浅井を選ぶおつもりですか」

一旦言葉を切り、彼はゆったりと移動し始める。

「そもそもこの戦は、貴方が原因で始まったのですが…」
「それは…」

市が動揺を見せ、追い討ちをかけるように光秀が続ける。

「貴方が夫を殺していれば…私たちがここへ来ることもありませんでした」
「でも…」
「本来失われるはずではなかった命が、この戦によって消え続けている…全部、貴方のせいですよ。私があれほど言ったのに、動かなかった貴方の、ね」
「……」

市は何も言えなくなってしまった。

やはり市に手紙を送っていたのは光秀だったのだと、ルカはようやく確信する。
内容は、長政を暗殺せよ、といったところか。
従う訳がない。そんな事は、少しでも長政と市が共にいるのを見ればすぐに分かる事だ。

「違う…お市様のせいなんかじゃない」

市の心情を全て理解して、煽って苦しめ、結果的に開戦へと至らしめたのは他ならぬ光秀ではないか。

そう反論しかけたルカの声は、扉が開く重々しい音に重なり消される。
光秀が不気味に笑い、長い手がスッと扉の先を差し示した。

「そして、その結果がこちらです」
「あ、あぁ…!」

市が絶望に満ちた悲鳴を上げ、ルカも声を失った。

信じられない光景が広がっていた。

まず見えたのは魔王、織田信長。そしてすぐ隣、他の兵士に折り重なって倒れているのは。

「いやぁあ─────!」

一際大きな市の悲鳴が辺りを埋め尽くす。叫びながら、彼女はとてつもない勢いで走っていった。

夫の亡骸に向かって。

「お市!」

濃姫の声がしたが、後に続く言葉はルカには聞き取れない。

そんな中、市が近づくのを見ていた信長が何でもないように悠然とマントを翻す。
それだけで彼女はあっけなく弾き飛ばされ、地面に叩きつけられる。
市はそのまま泣き崩れた。

ルカは何も出来なかった。駆けつけなければと頭では思うのに、体も動かなければ声も出ない。
ただ、嫌な汗が吹き出し、めまいを覚えた。耐えきれず座り込むと、絶望と無力感が一挙に襲いかかった。

「こんな…はずじゃ…」

悔しさで視界が滲む。ルカはどうしようもなくなり、動き出した信長を見上げる。

何故か信長は、ルカを見ていた。

一瞬恐ろしさは感じたが、ルカは目を反らす事はしなかった。信長の、それこそ魔的な力に捕われ、抜け出せなくなっているのかもしれなかった。

濃姫たちが黙って成り行きを見守り、辺りは市のすすり泣きしか聞こえない。
暫しの沈黙。
信長の目が、どこか遠くを見るように細まった。

「…常ならぬ身が、何をしておるか」
「え…?」

緊張の走る中、ぽつりと発せられた問いに殺意はなく、ルカは戸惑う。
もっとも、彼女より戸惑ったのはその周りの人々──濃姫や蘭丸、光秀たちであったろうが。

「わ、たし…?」

口ごもるルカから信長が視線を外す。緊張から解放され、ルカは無意識に浅くなっていた息を整えた。

しかし、すぐに異音を耳にして心臓が跳ね上がる。

「あぁ…ああああ…!」

目をやると、不自然に立ち上がった市から大量の黒い手が溢れ、あらゆるものを飲み込んでいるところだった。

「だ…だめ! お市様!」

一瞬呆然としかけたが、触手が信長はおろか長政にまで及ぼうとするのを見てルカは叫んだ。

「戻ってきて…飲まれちゃダメです! お市様!」

必死に呼びかけるが、市の目は虚ろで放出される手も全く減らない。

それどころか、駆け寄ったルカ自身もいつの間にか黒い手に絡め取られていた。視界が黒くなる。

「あっ…」

悲哀。絶望。憎悪。
あらゆる市の思いが闇の中で押し寄せる。

それは体が引き裂かれるような痛みを伴っていて、ルカは自分でも分からないうちに悲鳴を上げていた。

もがいて、手を伸ばして、とにかく暴れる。

そんな、永遠のような一瞬の後に、ルカは意識を手放した。



20100311
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