色々夢
□秋水の誓い
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関羽との苦しい会話を無理やり記憶から追い出し、すっと表情を消す。
部屋の外に誰の気配もない事を確認すると、壁に設けた隠し扉に身を滑り込ませた。歩きながら、黒い外套で身を包み直し、口元まで丁寧に覆う。
すぐに別の廊下に出た。照明もなく、人の気配がない。
ここから先はまず人に会うことはない、曹操の私的な空間だ。しばらく進み続けると、扉一枚隔てた向こうから探していた声が聞こえた。
少し耳を傾けてみると、どうやら今後の領土拡大について話し合っているらしい。と言うより、曹嵩が一方的に曹操に命じていると表すべきか。
僅かな隙間から見ると、僅かな灯りの中、曹操は酒の入った杯を傾け、それを静かに聞いている。暗がりで目の前の曹嵩にもわからないかもしれないが、渋面になっているのだろう。
側近の中でも、幼い頃から彼に仕えてきた楊采しか知らない事がある。
二人の関係は決して良くない。
曹嵩が曹操に対して行ってきた非道の数々を考えれば当然で、それを知った楊采もまた、曹嵩に対して思うところがあった。
──あれは我が覇道の最大の障害。
何度なく聞いた曹操の言葉が脳裏に甦る。
握り締めた剣が、その力に耐えられずカチリと音を立てる。
途端、曹操の目がこちらに向いた気がして全身から汗が噴き出した。
「──父上。実は、私がこれから大陸を制覇するにあたって妨げとなるものがあるのです」
穏やかな曹操の声が、楊采の耳にやけにはっきり届く。
こうなると彼は完全にこちらに気付いたと考えた方が良いだろう。そして、何をしようとしているか察知し、受け入れている。
「妨げだと?そんな障害は今すぐに取り除かなければならん」
「そうですね。障害は取り除かなければなりませんね」
ゆっくりと、曹操が移動して曹嵩の視線を誘導する。
楊采は扉に手をかけた。
「勿論だ。一体何がお前の障害となっているのだ?」
「私の障害は…」
扉を開け放ち、そのまま目前にある背へ剣を突き立てる。
躊躇わなかった。
「貴様だ、曹嵩」
「──がっ…ふ…っ」
抵抗して曹嵩が振り返ろうとしたが、それを曹操の冷えた声が阻む。
「我が覇道において貴様の血はただのしがらみ。私の足かせにしかならぬ」
「貴、様…血迷った、か…我が曹家、一族の為、貴様が…働くは、当たり前で、あろ…!」
「下らぬ。私は私のために働くのだ。憎き貴様のためでなど微塵もない」
曹操の視線を受け、背中から剣を引き抜く。曹嵩は、ふらつきながら数歩先の曹操を指差した。
「育ててやった恩も忘れ…やはり、所詮は、卑しい、女、の…」
「……」
曹嵩の体が力を失い床に崩れ落ちる。その目が光を失う様を見届け、楊采はようやく息を吐き出した。被っていた外套を脱ぎ、死体を隠すように放り投げる。
「楊采…」
名を呼ぶ曹操の声はいつになく静かだった。
いくら憎しみを抱いていたとしても、楊采はたった今、目の前で彼の肉親を殺した。そして、その死を利用しようとしている。
自分のしている事に、今更ながら体が震えた。
「……っ、今、この屋敷は大勢の人間が出入りしています…賊が、紛れ込んだとしても不思議はなく…曹操様を暗殺しようと表れた賊は、それを庇い、阻もうとした曹嵩、様を…っ」
曹操が無言のまま、楊采の手から剣を取り上げる。それを何度か握ったり傾けたりしてから、ようやく言葉を発した。
「刃の入れ方…柄の形状…重心…しかと見た訳ではなかったが、この剣は徐州産のものであろう」
先の大戦の最中、楊采は各軍に間者を紛れさせた。そして各国の武具を調べ、あわよくば持ち帰らせた。これはその時入手した一つである。
確かにその時、曹操には特徴など仔細を報告をしている。その記憶力に内心舌を巻く。
「……はい。我が軍では、通常誰一人使用しておりません。軍で支給している剣の方が良い物ですし」
「では、先程のお前の『報告』は間違っているな。屋敷に紛れ込んで私の命を狙っていたのは、徐州の間者かその息のかかった刺客であった、となる」
「…はい。申し訳ございません」
よい、と上機嫌に応じ、曹操は剣を床に投げ捨てる。彼はその手で楊采の頬を撫で、無理やり顔を上げさせた。
「良くやった。我らは父上の弔いの為、堂々と徐州へ侵攻する」
曹操は極上の笑みで楊采を見ていた。
「お前が来なければ、私が直接手を下していた。私を庇ってというのは気に入らんが…まぁ、最期くらい華を持たせてやっても良い」
「曹操様…」
「我が覇道の障害となるものは何一つ許しはしない。良いな」
「はい」
これで良い。間違っていない。
自分自身に言い聞かせながら、楊采は頷く。
もう、体の震えは止まっていた。