06/17の日記

23:37
蘭春(レーサー蘭丸)1
---------------
白と黒が並ぶ、その前にいる時だけはどんな雑音も消えていく。そっと這わせた指に感じる心地よい冷たさ。その冷たい誘惑に流されるまま、指先が動き出す。
ぽつりぽつりと増える音が、重なり、響きあい、やがて音楽になる。
この瞬間の、なんとも言えない感動が忘れられないから、こうして何度も向き合うのだ。けれど、その一度でも同じ感動を味わえた事はなかった。
そして、一度たりとも満足感を得られた事などなかった。



それは例えばレースに赴く瞬間の、始まりを予感させるようなもの。
武者震い、と言っていいかもしれない。
蘭丸は思わず顔を上げ、音のする方へ目を向ける。
そこには一台のピアノがあり、一人の少女が座っていた。彼の座る席から顔は見えないが、きっと若いのだろうと、服装や全体の雰囲気を見て予想する。

(……あいつが、さっきの音を?)

今は、店内の雰囲気に添うような当たり障りのない穏やかなメロディが奏でられていて、冒頭の音をあの少女が弾いていたか疑問に思う程だ。

じっと見ていても、答えは出ない。何気なさを装って周りを見回すが、同じ疑問を抱いていそうな人間は当然いない。しかし、ピアノの音色にうっとりと耳を傾ける客が案外多い事に気付いて驚いた。

手元に残ったコーヒーに目を落とす。すっかり冷めていたが、仕方なくカップを手に取り傾ける。広がる香りを味わいながらピアノの音色に集中する。さらりと耳に入ってくる優しい音に、自然と心がほどかれていくような気がして、なるほどな、と口元が歪む。

「……なにその顔、気持ち悪」
「うるせえ黙れ」

そう言えば目の前にこの女が居たのだったと思い出して、全力で舌打ちしたくなった。
気の強さが滲む大きな目に、すっきりと整った鼻筋、そしてきゅっと口角の上がる形の良い唇。鮮やかな長い髪を無造作に結い上げ、抜群のスタイルを惜しげもなく晒す出で立ちをしている。道を歩けば男女問わず大抵の人間が振り返る、そんな輝くオーラを纏っている。
年下のはずだが、蘭丸は敬語で話し掛けられた記憶はない。見目だけは、確かに見映えがするのは認めるが、それだけでは口の悪さは全く補えない残念な女である。

「コーヒー冷めてるんじゃない? 変えて貰えば?」
「……お前が遅いせいだろ」

別に好んで連れ歩いている訳ではない。食事に出掛けようとしたら勝手に付いてきた挙げ句この店に誘導されたのだ。
その上、食事も終盤になった頃合いで席を立ったままなかなか帰ってこず、そうこうしているうちにピアノの演奏が始まったのだ。演奏は定期的にあるようだが、必然的に人が多い時間帯という事になる。あまり人混みに巻き込まれたくなかったからわざわざ早い時間に食事を取りに出たのに、全く意味がなくなってしまった。

「えー、待っててくれたの? 蘭丸の事だから先に帰ると思ってた」
「おま…」
「冗談よ。おかげで良い音聴けたでしょ?」

勝ち誇ったように言われ、蘭丸はぐっと言葉を詰まらせ、そのまま席を立つ。椅子にかけていた上着を取り、さっさと出口に向かう。こちらの事など気にする訳もない友千香が後に続いているのが足音でわかる。

「あ、そういえば伝票は?」
「分かってて聞くな」

当然、蘭丸が友千香の分まで払ってやったのだ。表面的にしか聞こえない礼の言葉を聞き流して、蘭丸は出てきたばかりの店を振り返る。
先程の少女はまだピアノを引いている。その幸せそうな、夢見るような表情は聴こえていた音色そのものだった。

「上手いでしょ、あのコ。毎回、全部即興で弾くのよ」
「…即興?」

聴いたことがない旋律だとは思っていたが、即興だとは気付かなかった。もっと、しっかりと楽譜を弾き込んできたような演奏に感じたのだ。
再度少女の方へと目を向けた蘭丸を覗き込むようにして、友千香がニコリと笑う。そうすると、駆け出しとはいえ芸能人らしい華やかな美貌が更に際立つ。

「あたしね、歌手デビューする時はあのコの曲で!って約束してるの」
「…………知り合いかよ」
「幼馴染みなの。幼稚園に入る前からずうっと一緒なんだから」

特に興味もないからといつものように、そうかよ、と流してから数秒。蘭丸はゆっくりと友千香へと視線を戻す。
ずっと一緒、という事は。

「……お前ら、まさか同じ年齢なのか……?」
「……ねえ、どういう意味?」

つい数秒前まで煌めいたはずのオーラをどす黒く染め上げ、友千香が微笑んでいる。思わず後退りしてしまった事に気付いてより気まずくなった蘭丸は、そのまま駐車場へと急ぎ歩き始めたのだった。
カテゴリ: 蘭春(レーサー設定)

前へ|次へ

日記を書き直す
この日記を削除

[戻る]



©フォレストページ