単発
□恋慣れぬ彼の涙 R18
1ページ/3ページ
『ナイアードの泉 水霊ナイアードの宿る泉で水源は恋多き彼女の涙。この湧き水を飲んだものは一昼夜うなされ時に激しい求愛行動にでる者もあると伝えられている』
「ほう、これがそうですかにゃ」
アイザックがギルドマスターを務める〈黒剣騎士団〉のメンバーが謎の症状にみまわれてから数日後。シロエとにゃん太は、書類の積まれた執務室の机の前で、小瓶に揺れる水を見つめていた。アイザックに頼まれた調査の折、水質検査用に取ってきていた物の残りだ。
精霊の呪いが掛けられている水、という設定が〈フレイバーテキスト〉上では語られているが、見た目はただ美しく透明度の高い水そのものだった。そもそも、ゲームだった頃の〈エルダー・テイル〉において、ナイアードの泉はなんのクエストとも関係のないただの背景そのものだった。だからこそ、〈フレーバーテキスト〉そのものは意味をもたない、世界観を盛り上げる為の存在に過ぎなかったのだ。
――まさか、それが意味を持って存在するようになるなんて。
今の所〈黒剣騎士団〉のメンバーや同じく泉の水を飲んでしまっていたトウヤやルンデルハウスを襲った症状はこの〈フレーバーテキスト〉通りの事が起きたせいだと原因付けられている。
勿論、これはナイアードの泉だけに生じた事例かもしれないし、そもそも〈フレイバーテキスト〉が意味をもったという結論が正しいとも限らない。これからの細かい検証が必要だった。
――世界とゲームが融合しようとしている
?
そもそも〈冒険者〉とてただのデータだったはずだ。それがこうして今、感情や感覚をもった〈冒険者〉という生き物としてこの世界に存在している。「この世界」に意味のない物は存在しなくなっているのかもしれない
。
――もし融合が完了する時がくるとして。
「この世界」は「もとゲームだった世界」などではなく、確固とした世界「次元」として存在するようになるのだろうか。だとすれば、それは自分達が「現実」と呼ぶ世界にどういう影響を与えてくるのだろうか。
シロエはそっと眼鏡を押し上げる。
――浅慮はいけない、何一つ焦ってはいけない。一つ一つ、真実を見極めていかないと。
「シロエち」
不意に耳元で柔らかいバリトンが響いて、我にかえる。
「あっ、ごめん、えと、班長はどう思う?」
「フレイバーテキストの事ですかにゃ?」
にゃん太はそっと手を伸ばすと、水の入った小瓶を持ち上げた。瓶の底から水を眺める澄んだ黄緑色の瞳が光に反射して、なんだか綺麗だとシロエは思った。
「そうですにゃ、我々は世界のうねりに遭遇しているのかもしれませんにゃ」
「世界のうねり?」
「我が輩にもわからないのにゃあ。そう感じるだけですからにゃ」
顎の辺りを撫でながら、にゃん太は続ける。
「ただ。この水に関しては検証する必要があるかもしれませんにゃあ」
「そりゃそのつもりだけど」
「どうやって?」
「飲んでみようと思って」
「言うと思いましたにゃ」
にゃん太は肩をすくめると大きく息をついた。いつも優しげに細められている目が大きく開かれ、口元には笑みがない。怒っているとも、呆れているともとれる表情は、何度見ても慣れないとシロエは小さくなる。
「怒ってる?」
「いえ。ただ、我が輩、どうしてもシロエちが他の人に求愛をする姿を見るなど、我慢なりませんのにゃ。我が輩にもそうそう口にしない言葉を他の誰かに吐く? それを見るくらいなら、我が輩が飲んだ方がよほど良い」
言い終わるか否かの瞬間に、にゃん太は小瓶の蓋を開けたかと思うと、止める間もなくそれを飲み干した。
「は、班長!」
「発熱、幻覚、求愛行動、でしたかにゃ」
「そ、それは、即効性じゃないよ?」
「分かっていますにゃ。明日の朝食も下準備してますのにゃ」
食事の心配をしている訳ではない。まだ、はっきりと得体がしれないものをにゃん太の体内に入れたという事が、シロエにはどうしても耐えられない。
「いやだ、班長、出して! まだこれの効果が種族によって違うのかもわからないんだよ!?」
実の所、誰にも黙っているがシロエは夕方にこの水を飲んでいた。取ってきたその夜は、トウヤとルンデルハウスが呪いに侵されていてそれどころではなかったし、それが落ち着くのを待っていたら今日になったのだ。
現実世界でもウイルスへの抗体は個体によって違いがあるように、呪いへの抗体があるのかも知りたかった。それには自分で試すのが一番手っ取り早い。
――だから飲んだのに。
今の所、シロエには何の変化も訪れていない。ハーフアルヴという事も何か関係あるのだろうかと考えていたところだった。それが猫人族にどう響くかなんてまだ何もわからない。
もし、獣族には激しく効く呪いだとしたら。にゃん太が、トウヤやルンデルハウスの時のように、誰かれ構わず求愛を始めたとしたら。
――いやだ、そんなの。
にゃん太のシャツの袖をぎゅうと掴んで引き寄せると、力まかせに抱きしめる。
「痛いですにゃ、シロエち」
「ごめんっ……でも僕だって」
――嫌なんだ!
優しい目の奥で欲望が揺れるような熱を感じるのも、掠れた声が愛称でなく呼び捨てにするのも、余裕がないことを示すように若干手荒に扱われるようになるのも、自分だけであって欲しかった。それだけは誰にも譲れないのだ。
「シロエち? どうしましたかにゃ?」
腕を抱くだけでは足りず、柔らかい毛で覆われた体を抱きしめると、困惑したようなにゃん太の声が聞こえる。それでも離したくない。柔らかな毛に包まれているせいか、やたらと身体中が熱かった。知らず、息も荒くなっている気がする。
「……シロエち? 熱がありますかにゃ?」
心配気なにゃん太の声が耳をくすぐると、背中から粟立った。
「っあ!」
――あつい。からだじゅう。
頭の中に薄膜でもかかったかのように、思考が鈍っていく。にゃん太の背中に手をまわして強く抱きしめていないと、足元から崩れてしまいそうだった。
「はん、ちょう」
「――っ、シロエち、どうやら、検証を、始めたほうがよさそう、にゃ」
すがり付いていたシロエを強引に引き剥がしたにゃん太は、苦しげにうめいて目元を押さえた。
「どうした、の、はんちょ」
最後まで言葉にする前に、にゃん太は目元を覆っていた手を放すと、おもむろにソファーに倒れこむ。
「班長!」
「どうも、熱、が。……ああシロエち。今日も愛らしい」
――え……?
「鋭い眼光に囚われているのは我が輩の方なのにゃ。我が参謀よ」
――ええええ……。
「叶うことなら、その全てを我が輩のものとして、主と朝寝をしてみたい」
――こ、ここ、これって。もしかして班長、精霊の呪いが……!?
そして。困った事に、シロエもさっきから胸の動悸が激しくなる一方で、身体中の熱も上がり続けているのだ。
「愛している、我がマスター」
にゃん太は憂い気な表情でソファーに横たわったまま、シロエに向けて手を伸ばす。どうすればよいか分からず、思わずシロエも手を伸ばして、そのまま引き倒された。
気付けばにゃん太の上に覆いかぶさる形になっていて、見つめる先から唇を奪われた。
「んっぅ」
いつもなら、ゆっくりとシロエの呼吸に合わせるように開かれる唇を、今日は強引に開かれる。ざらついた舌で口腔中を侵されると、すぐにぼんやりしてしまうのはいつもの事だっが、いつもならそれに気付いているかのように息継ぎの瞬間はくれるのがにゃん太だ。
「っふ」
けれど、今日のにゃん太はいつまでたっても解放してくれる気配がない。にゃん太の右手はシロエの後頭部をしっかりと押さえつけ、左手は腰を抱いている。ソファーに寝転がるにゃん太の上に倒れこむ、という不自然な体勢でいる為に、力も入り辛い。
完全に、シロエはにゃん太の手の内だった。
散々咥内を嬲った舌が出て行ったのがシロエが苦しさのあまり意識を飛ばしそうになった瞬間だったのは、にゃん太の計算どおりだったのだろうかと思ったが、白く濁った頭ではまともな考えの一つも浮かびそうになかった。
「潤んだ瞳は黒曜石のようだ」
にゃん太が歯の浮くような台詞を続けるから尚更に。
「は、はんちょ……ぅ、ねこびとぞくの、公用語は、どうしたの?」
後頭部を押さえていた手が、うなじを這い始めることに身を震わせながら、シロエはようよう口を開く。猫紳士は笑っていない目でわらいながら、声をひそめた。
「此方の方が、シロエちのお好みですかにゃ」
「好みとか、そんなんじゃなくて――ひゃぁ!」
上ずった声を上げてしまったのは、背中に冷たい感触が這ったからだ。何かと思えば、にゃん太の手がいつの間にか服の裾から忍び込んでいて、素肌に触れているのだ。常用している手袋は素肌より少し冷たい。
その指がシロエの黒いニットをたくし上げながら、背骨をなぞっている。背中から駆け上がってきた快楽に思わず声が零れそうになって、慌てて噛んだ。
「んっ」
「こら、綺麗な唇に傷がつきますにゃ」
うなじを撫でていたはずのにゃん太の指が、今度はシロエの唇をなぞる。また無理に開かされ、指が咥内に滑り込んでくる。開かれてしまえばもう声を殺すのは難しい。
「ぁ、あっ」
「どんな鳥の鳴き声よりも、シロエちの泣き声は美しいにゃあ」
――何言ってんの、班長!
通常なら笑いながらつっこむ所だ。
しかしどうした事か、通常ならサムイと感じるその睦言が、今のシロエには甘美な誘惑に聞こえる。
――もしかして、これも精霊の呪いなのかな。
微かに残る理性の欠片で、それくらいの分析はしてみたが、身体中を包む熱に浮かされて思考などまともに働きそうもない。それどころかにゃん太に煽られるように、自分もあらぬことを口走りそうになっている。
――これは泉の力なんだから仕方ないんだ。
にゃん太も自分も、不可抗力なのだ。
泉の水のせいで、熱烈な求愛行動をとってしまったトウヤとルンデルハウスは、翌日にはその記憶がおぼろげだった。浮かされた熱のせいで記憶がおろそかなのは、現実世界の発熱でも起こりえない事ではない。
――多分、忘れるから、大丈夫、だよね?
先ほどから喉元で殺している言葉を吐き出したとしても、明日からの日常に差し支えないのならば。
「は、ん、班長」
「にゃんですかにゃ」
シロエの咥内を掻き回していた指が、今度は耳朶で遊びに入っている。まるで、何本も手があるように感じるのは自分が不慣れなせいか、にゃん太が慣れているからなのかシロエにはわからない。
ただ、まるで自分の力ではどうしようもない程の衝動でこみ上げる言葉を、そっと息のように吐き出す事しかできないのだ。
「だ、大す、好き――で、す」
にゃん太の「求愛行動」に比べれば平凡極まりない告白の言葉だ。
けれど、シロエにとっては最大級の、そしてにゃん太にとっても意味のある一言だったに違いない。
にゃん太の猫の目が大きく大きく見開かれそれから、まるで泣いているように微笑んだのだから。