単発

□嫉妬
1ページ/1ページ

 天秤祭を終えて、一息ついた夜の事だった。
 年少組が寝静まった食堂に、なんの打ち合わせも無く、シロエ、直継、にゃん太の茶会メンバーが顔を出したのは、ほんの偶然だった。
 シロエは寝る前にギルドハウス内を見回った後だったし、直継は飲み直したいと思ったからで、にゃん太は明日の朝食仕込みが終って一息つこうと思ったからだった。
「おや」
「あれ」
「おお!」
 三者三様の声を上げて、三人は自然、席に着く。がらんとしたテーブルの前に座っていると――とはいえ、直継はしっかりと酒瓶を抱えていたし、にゃん太はホットミルクを手にしていたが――手持ち無沙汰で、シロエはなんとなしにテーブルに顎を乗せる。
 その隣にコトリと音をたてて、ティーカップが置かれる。
「シロエちはお疲れですにゃん」
「はんちょ」
 その反対側にどおおんと音を立てて、酒瓶が置かれる。
「シロ、お疲れ祭り!」
「なおつ」
 二人とも、シロエをねぎらっているらしい。くすぐったいような心遣いに顔を緩ませたシロエだったが、頭上の二人は何故か雰囲気がおかしい。
「疲れているときに寝酒は良くないにゃ」
「だあってよ、ガキみたいにミルク、とか飲んでらねえじゃん」
「ホットミルクはリラックス効果が高いのですにゃ」
「爺とはいえ、やっぱ猫だからミルクか」
「若造はすぐ酒に走るにゃ」
 テーブルに顎をつけたままのシロエの頭上で、火花が飛び散る。
 ――あれ?
「ぴちぴちと言ってほしいね、迸る若さ」
「我が輩は猫ではないにゃ、猫人族にゃ」
 ばちばちばち。
 ――あれ、れ?
 どうやら。
 何かもめているらしい。
「とにかく、シロは俺と酒を飲むんだ。な? シロ」
「シロエちは酒に弱いんだから、ミルクにしておくのにゃ。だにゃ? シロエち」
 きらーん。
 じいぃぃー。
 にゃん太の目が光りを放ち、直継が乞うようにシロエを見つめる。
 ――ええええ? 僕? これ収めるの、僕ぇうえぇ!?
 疲れている。どう考えても疲れているのに、何故こんな目にあっているのだろう。そもそも、直継とにゃん太は、共通点はないけれど、対立した事もない。直継の明るさと軽さを、にゃん太はいつも褒めていたし、にゃん太の落ち着きを直継は頼りにしていた。
 やはり〈放蕩者の茶会〉メンバーというのはシロエの中でも特別で、大切だった。大災害以降の〈エルダー・テイル〉で笑う事が出来ているのは、この二人と会えたからという事は間違いないのだ。
 にゃん太も直継も、違う意味で大事な存在だった。
 それが。
「シロ!?」
「シロエち?」
 選べ、という事だろうか。
「いやいやいや、何、どうしたの、二人とも」
 テーブルから顎を上げて、シロエは立ち上がる。別段小柄だとは思わないが、二人の間に立つと、途端に小さくなたったような錯覚にかられる。
「いや、あのね? どうしたのさ、二人とも」
 直継はともかく、にゃん太までがこういう事をするのは珍しい。
「別に俺はシロと酒が飲みたいだけだぜ?」
 ちらとにゃん太に目をやった直継につられて、シロエもにゃん太を見つめる。いつもは大きな猫目を細めて、穏やかな笑みを浮かべているご隠居は、けれど、珍しいくらいに真剣な表情だった。
 最初は、直継につきあったおふざけかと思っていたが、どうも違うらしい。
「シロエち」
 真剣な表情のままで、にゃん太がそっとシロエの顎を撫でる。思わぬ行動に、びくりと身を竦ませると、側で見ていた直継が小さく呻いた気がする。
「班長、そりゃ反則」
「そうですかにゃ」
 春の陽だまりで日向ぼっこをするような口調でとぼけながら、にゃん太の指はシロエの顎から、喉元へとおりた。手袋の冷たさと、喉元を撫でられるという初めての経験に、シロエは思わず息を飲む。
「んっ」
 ――やば、変な声出た。
 瞬間、両隣の空気が冷たく凍った、気がするのは余程気持ち悪い声でも出してしまったのだろうと、シロエは慌てて口元を手で覆う。
「こら、シロエち。口を塞いだら、我が輩のミルクが飲めないのにゃ」
 塞いだ手を、にゃん太の指で剥がされて、妙に気恥ずかしい気分になった。
 なんというか、台詞のセレクトが……。
 同じことを思ったのか、直継が頭を抱えてあああと叫ぶ。
「班長、エロ台詞になってるっ! おパンツどころじゃねえぜ!」
 そうそう、それそれ。
 こくこくと頷くシロエに、にゃん太は見慣れたいつもの笑みを向けると、微かに首をかしげて髭を撫でた。
「何の事ですかにゃ? さて、直継っちもお酒はやめてミルクにするのにゃ」
 すばやく直継の酒瓶を取り上げたにゃん太は、自分の分だろうカップを直継の前に置く。
「班長のミルク……いや、俺はいいや。寝る、うん、もう寝るわ。また今度飲もうぜ」
 おやすみと手を上げて、直継はあっさりと出て行く。妙に背中が小さく見えるのは気のせいだろうかと、シロエは首をひねった。

「シロエち」
「う、わっ」
 不意に耳元で囁かれて、また跳ね上がる。
 ――なんか、今日の班長はおかしい。
 普段なら、直継にあんな風に絡まないし、こんな近くで囁くような事もない。
 ――だいたいさっきの……。
 手袋越しの指に、喉を這われる感触が、まだ残っている。ぞくぞくと背中を這い上がってくる感覚に覚えがなくて、シロエは知らず、ぎゅうと目を閉じる。怖い、という言葉が無意識に脳内を巡った。
 にゃん太がそうであるように、シロエも普段、にゃん太の言動の理由はなんとなく理解している。「こういう結果を出す為の言動なのだな」という、ぼんやりとしたものなのだが、それに沿う動きをすれば「間違わ」ない。
 けれど、今日のにゃん太の意図が、シロエには全くわからなかった。
 よく知っているはずの人間が、不意に知らない顔を見せる。それはいいようもない怖さとして、シロエを包み込んでいく。それを振り払う為に、精一杯の力で喉を奮わせる。
「は、班長っ!」
「なんですにゃ」
「手っ、手が」
 にゃん太の手は、もう喉ではなく、シロエのうなじ辺りを這っている。くすぐったいような、何かがこみ上げるようなむずがゆさの反射のように、勝手に喉で反り返る。
 その喉元に、ふわりと柔らかいものが触れた。
 にゃん太の口元なのだと気付いたのは、しばらくしてからだった。ふわふわと触れる柔らかさに、くすぐったさが全てを飲み込んでいく。
「ちょ、班長、くすぐったい、何?」
「シロエ」
 喉元で、聞きなれた声の、聞きなれない言葉が揺れる。
 ――え、今、シロエって……。
 長い付き合いの中で、名前で呼び捨てられた事などない。
「っあ」
 驚きと、未だ喉元からはなれないにゃん太の手入れが行き届いた毛のせいで、思いもしない声が零れる。くすっぐたいのは、身体なのか、心なのか、よくわからなくなる。
「はん、ちょ、離れて……」
「嫌ですにゃ」
 強く言い放ったにゃん太は、そのままシロエの喉元に軽く軽く、歯をたてた。
 目の端がほんの少しだけひくつくような痛みを刹那感じるシロエを気遣う様子もなく、にゃん太はすぐにその場所を、ざらりと舐めた。猫のそれは、シロエに痛みではなく、違う感情を与えてくる。
「っ」
 頭の奥で、ちかちかと点滅ランプのようなものが光る気がする。本能と呼ぶかもしれないその光は、シロエにこう呼びかけてくる気がする。
『食われる』
 猫の捕食する本能に反応しているのかもしれない。けれど、シロエは決してただ捕食される事を諦める、無力な獲物ではないのだ。
「班長っ!」
 持てる力の全てでにゃん太の体を押し返すと、予想以上にすんなりと、にゃん太はシロエから離れた。にゃん太の意図がわからず、困惑を抱えたままで睨みつけると、にゃん太は疲れたように顎の毛を撫で付けて目を細めた。けれど、何も言わない。
 焦れたのは、シロエの方だった。
「班長、今日はどうしたの」
 にゃん太はテーブルで出番を待っているカップを手にすると、そっと口をつける。一口飲みこんでから、静かに口を開いた。
「そうですにゃ……まだ見ぬ未来への嫉妬、ですかにゃ」
 どういう事か、シロエには全くわからない。もっと深く聞きたかったが、にゃん太は「これで終わり」とでもいうように、優しく微笑んで背を向ける。
「班長?」
「おやすみなさいなのにゃ」
 静かな声を残して、にゃん太の部屋から出て行く。静まりかえった食堂内に一人残されて、シロエは大きく息を吐いた。

 ――疲れた。
 事務仕事に追われた一日を、優しく終えたかったのに。これでは、倍疲れただけだ。力が抜けた体を支えるために椅子に座り込むと、目の前にはにゃん太が飲みかけたミルクが残っている。
 ――班長の、ミルク……。
 耳元で囁かれた声や、喉元で呼び捨てられた名前、うなじを這う指の感触と、それから。
 舐められた、感触。
 思い出すと身体中の熱が上がっていく気がする。
 どうしてどうして、何で。
 それは、らしくないにゃん太の言動だけに対する問いではなく。
 ――どうして僕は嫌じゃないんだろう。
 それどころか、何度も反芻してしまっている。ぐるぐると、にゃん太の事ばかりが頭で渦をまいてうるさいくらいに。
 誤魔化すつもりで、目の前のミルクに口をつける。冷めてしまったミルクは、それでもやんわりとシロエの喉を潤し、ちょっとした安堵をもたらしてくる。
「……寝よ」
 明日も予定が詰まっている。この先、やるべき事への一歩をギルドのメンバーに告げるつもりだった。すなわち、少しアキバを離れるという決断を。
『まだ見ぬ未来への嫉妬、ですかにゃ』
 もしかして、にゃん太は何か予感しているのだろうか。
 何にしても、今夜にゃん太から与えられたものは、しばらく自分を苛むのだろうと、シロエはボンヤリと思った。
                 おわる
 

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ