単発

□猫のいぬまに
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その視線が、にゃん太を追っていることに、シロエは気付いていた。セララのように熱をもったそれとは違うけれど、ふとした瞬間には必ず、彼はにゃん太を見つめている。
 二人の間に何かあるなどとは思わなかったが、その視線は知らず、シロエを困惑させた。

 山積みの雑務に追われているせいか、頭に酸素が入ってこない気がする。それがシロエの雑念を余計に掻き立てているのかもしれない。そう自覚しながら、真夜中のアキバの街をふらついたのは気分転換の為だった。
 昼間ほどの喧騒はないが、寝静まる街という事もない。見知らぬ人波に身をゆだねていると、考え事も雑念も、そこに紛れ込んでしまうようだった。
 こうする事で何かが解決するわけもないが、気を紛らわすという点において、散歩というのは悪い手ではない。

 ――はずだったのだが。
「おや、こんな夜中にめずらしいね。こんばんは、シロエ君」
 大柄の体の上に、端整な顔を乗せた眼鏡青年がシロエを呼び止める。
 うわ。
 一瞬、躊躇したのは、この男こそがシロエの雑念の根源だったから、である。
「どうも」
 別段、嫌っている訳ではない。〈円卓会議〉において代表でもある戦闘系ギルド〈D・D・D〉ギルドマスター、クラスティ。常に冷静で、何を考えているか分からない所はあるが――それはシロエとて他人の事は言えないのだが――アキバにおいて、存在感の大きさは他と比べる間でもない。戦闘力という点では、非力である自分とは比べようもないような男に、シロエはどこか尊敬すら覚えていた。

 ――だからって。
 『それ』と『これ』は別問題なのだが。
「何か、緊急の作戦でもあったのかな?」
 クラスティは微笑みを携えたままで、シロエの顔をのぞきこむ。なまじ、美形なのだから至近距離は心臓に悪い。そっと身をひくと、なるだけ感情を出さぬように微笑み返した。
「いえ、ただの散歩ですよ。クラスティさんこそこんな夜中に一人なんて」
 言いかけて、慌てて口をつぐんだのは無粋さに気付いたからだ。恋愛経験がないとはいえ、一通りの知識くらいは持っている。クラスティほどの男が夜一人で出かけているとすれば、それは目的地があるという可能性が強いのだ。例えば、女性の――。
「あっ、僕、もう帰るところなんで」
「私もただの散歩だよ。ちょうどいい、君のギルドタワーまで送ろう」
「いえ、大丈夫ですよ、これでも男なんで」
「君は有名人なんだ。もっと自覚を持った方がいい」
 有名人はクラスティの方だと思ったが、クラスティのいう事が分からない訳でもない。確かに、護衛もつけずにうろつくなとは、直継にも言われている事ではあった。
「はあ」
 なんとなく押しに負けて、大人しくクラスティに付き従う。
 困ったな。
 街のはずれにあるログ・ホライズンのギルドタワーまではそれなりの距離がある。その間、喧騒からもはずれた暗く静かな道が続くのだ。この男に、問いたださずにいられるだろうか。
 ――どうして、いつもにゃん太班長の事を見てるんですか。
 と。



 気付いたのはいつ頃だろう。
 〈円卓会議〉結成後、確かにクラスティと顔を合わす機会は増えた。会議そのものでもそうだし、個別に訪ねる事もあった。その全てににゃん太が同席していたわけではないが、にゃん太がいる時のクラスティは、どこか楽しげだったのだ。
 二人で親密にしている場面など見たことはない。そもそも、円卓以外での接点などないだろうし、むしろシロエの方が断然機会が多い。
 それでも、確かにクラスティの視線はにゃん太を追っているのだ。
「シロエ君?」
 右斜め上から落ちついたテナーの声が落ちてきて、シロエは我に返った。見下ろしてくるクラスティは、どこか楽しげだった。
「どうやら参謀殿は言いたい事でもあるような顔をしているね」
「いえ、そんな」
 無い、とは言えなかった。
 自分にとってにゃん太がどうしようもなく大切な存在であるのは確かで、他の誰でもなく、特別扱いされたいのだと自覚もある。
 セララのような澄んだ恋情かといわれると自信はないが、本当は誰にも渡したくない独占欲が身を苛むのも自覚済みだ。
 ――その上、クラスティさんまで。
 セララのにゃん太への恋情は理解できる。ピンチに駆けつけたヒーローに恋をするのは、釣り橋効果も手伝って、定石だろう。たとえ、相手が猫の外見でアラフォーだとしても。
 しかし、クラスティの視線は理解できない。
 もう、限界だった。
「あのっ」
「ん?」
 首を傾げる美形に向けて、シロエは一気に言い放つ。
「クラスティさんも、班長の事が好き、なんですかっ!?」
 瞬間のクラスティの表情を、シロエはしばらく夢にでも見そうだと思った。
 眼鏡の下で目を大きく瞬かせると、そっと唇が開き、
「なん、で?」
 いつもの形式ばった言葉使いでなく、まるで素そのままで呟いたのだ。図星にあせった、などという顔ではない。美形も形無しだ。
 ――あ。これが鳩マメ……?
 鳩が豆鉄砲なんちゃら、それだなあと、シロエはどこかのんびりと思う。
 つまりこれは、シロエの心配が杞憂だったという事だ。
「あ、すみません、なんでもないです」
「いや、その、オホン。その質問が出る理由を教えてもらいたいものだ」
 わざとらしく咳払いなんてものをしながら、クラスティがいつもの顔に戻る。
「だって、クラスティさん、いつも班長の事見てるじゃないですか」
「いつも……いや、まあそれは」

 否定しないのかよ、と突っ込む前に、クラスティが眼鏡を押さえながら、きらりと目を光らせた。
「それはだね、シロエ君。確かに私は彼を見つめていたかもしれないが、当然好き嫌いの問題ではなく、そもそも彼の存在そのものが魅力的というか、あの尻尾が揺れると見ずにいられる自信はないしだいたい尻尾というのは感情と直列つなぎだと思うのだが彼の場合もそうなのだろうかというか耳はどうなのかあれも感情メーターそのものだと思うのだがなにぶん猫とは会話ができないが彼となら会話も可能な訳でそれはつまり人間の長年に渡る願望をここでかなえることができるという事ですばらしいと思わないか!?」
 …………。
 …………――え。
 え、誰これ。

「シロエ君、分かっている、皆まで言うな」
「はあ……」
 クラスティは眼鏡に指を添えて、押し上げると、苦悩に満ちた顔で首を振る。
「これでも耐えているつもりだったのだが、さすが、君には隠し事一つできないな」
「つ。つまり」
 ようするに、クラスティはにゃん太が好きというわけではなく。

「猫好き、なんでしょうか」
「いや、好きというか、単に好ましいだけだ」
 猫好きらしい。そういえば、現実世界では猫を飼っていたと言っていた。その大事な愛猫の名を思い出せないと言っていた事を少し物悲しく聞いたのだが、こうやって溢れる猫愛を確認してしまうと、その物悲しさは倍に膨れ上がる。
 寂しいのかな。
 この、狂戦士クラスティが。
 怒涛の猫愛を聞かされた衝撃も、そのせいで少し薄れてしまう。
「それより」
 色々な事を誤魔化すように、咳払いをしながらクラスティがいつもの冷静美形顔に笑みを浮かべながら、首を傾げた。
「君はさっき、クラスティさんも班長が好きか、と問いかけてきたが、シロエ君は好きなんだね」
「うっ、うぅ、いや、あの、ほら、セララ……セララさんが班長を大好きじゃないですか。だからそのことを」
「誤魔化せると思っているのかな?」
 ギルドタワーへの帰り道は、ただ暗く静かだ。周りにあるのは木々を揺らす風くらいのもので、その静寂もシロエの誤魔化しを許さないかのようだった。
 本当は、いくらでも誤魔化す方法はあるのだ。相手がクラスティとはいえ、口で逃げる方法も物理的に逃げる方法もある。けれど、それは全て初手が勝負だ。それを、シロエはミスしてしまっている。動揺を、相手に伝えてしまったのだ。
 ――だって、ずるいよ、クラスティさん。
 猫大好き宣言のせいで、完全に度肝を抜かれ油断していたのは間違いない。
「あーその」
「シロエ君。私は問いかけているだけだ。別に他意はないさ」

 そんな事言われても。
 シロエは拳を握り締める。にゃん太を想う気持ちが、外に洩れていいなんて思わない。現実世界ではないとはいえ、ここにはここのモラルもある。そしてそれは、現実と少なからず平行しているのだから。
 それに、にゃん太は同じギルドの仲間なのだ。仲間にそんな感情を抱くなんて、下手したら裏切り行為と思われるかもしれない。
 怖い。ひたすらにそれは、怖いのだ。
「そもそも、この話を切り出したのは君の方だしね」
 それはそうだ。本来なら飲み込むべきことを、シロエは自らクラスティにぶつけてしまったのだ。耐え切れずに。
 ――なんて愚かなことを僕は。
「そうかな?」
 まるでシロエの心を読んだかのように、クラスティは続ける。
「人がひとを恋う事は、自然の摂理だ。そして恋をすると、誰しも理性を忘れ、思考と感情がばらばらになる。君がこんな夜中にふらふらしていることも、私への問いかけのことの含めて、それは自然なことなんだよ」
 そう言って微笑む大男は、まるで知らない人のようだとシロエは思った。優しげだが、どこか儚い。最強のような男に似つかわしくない言葉だけれど、シロエにはそう見えた。
「もしかしてクラスティさんも?」
 夜中に一人でふらつく程に、誰かを想って理性をなくす程の恋でもしているのだろうか。
「さあね」
 小さく笑って、クラスティはそっとシロエの背中を押した。
「私の仕事はここまでのようだな。なかなか楽しい時間だったよ。ではまた」
 押されて目にした視線の先、猫顔の紳士が背中で手を組みながら立ち尽くしている。

「にゃん太班長――っ」
「おやすみシロエ君」
 振り向いた時にはもう、クラスティは背を向け、手を上げているところだった。大きい大きいと思っていたが更に大きく見えて、シロエはそっと頭を下げる。
「おやすみなさいなのにゃ」
 すぐ側でバリトンの声が響いて肩を揺らすと、ふわりと肩を掴まれた。にゃん太はクラスティにらしくない鋭い視線を向けたあと、そっとシロエの顔をのぞきこむ。
「夜の散歩はどうだったのにゃ?」
「あ、うん」
「一人でふらふらするのは感心しませんのにゃあ」
「あ、はい。すみません」
 にゃん太の目は限りなく優しい。大きな猫目に覗き込まれると、思考も感情も全て読み取られる気がして、慌てて目をそらしたけれど、手袋越しのにゃん太の手がそれを許してくれない。
 顎を掴まれて、否応なしに見つめられる。
 ――全部、吐き出せたらいいのに。

 『人がひとを恋うのは自然だ』

 言葉が、喉を通りかかる。けれど、まるで進み方を忘れたように、空気がそこで止まった。「あ」の一言もいえない。苦しくて息を吸いたいのに、それも出来ない。
 たまらず、にゃん太の腕にすがりつくと、にゃん太はそっと目を細めてシロエの顎から指を離した。途端に呼吸の仕方を思い出して、シロエは大きく咳き込んでしまった。
「シロエち」
「な、なに」
「クラスティさんとは何の話をしてたのにゃ?」
「何って」

 言えない。
 ――班長が好き、って事とか。

 頭で唱えた言葉とは違うことを、唇でつむぐ。
「あー、なんか猫好きなんだって、クラスティさん」
「にゃ?」
「だから班長の事気になるみたい。そういえば、尻尾と感情は直列つなぎなのか、とか言ってた。面白かったよ」
 にゃん太の腕から手を離しながら、シロエは大きく伸びをする。
「っさ、帰らないとね」
「――まあ、今日の所はそれで許してあげますにゃ。帰ったら暖かいミルクを入れるかにゃ、ゆっくり眠るのにゃん」
「うん、ありがと」
 うっすらと空が明るんでいる。
 いつか耐え切れなくなる時が来るとしても、今はこれでいい。同じひさしの下で笑い合える、今はこれがいいんだ。
 シロエはそっと微笑んだ。


おわり

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