単発

□もふもふに加護を
1ページ/1ページ

「そういえば、今更なんだけど」
執務室で山のような書類に埋もれた机から顔を出しながら、シロエはドアから出ていこうとしていた紳士を呼び止めた。
猫顔の――この場合、けして比喩でなくまさに猫なのだが――紳士は、日だまりの微笑みを連れて振り返る。
「何かにゃ、シロエち?」
「んー、その姿のことなんだけど。班長は不自由しなかった?」

大災害以降、<エルダー・テイル>において、姿というのはもはやただのアバターという記号ではなく、自分自身そのものだ。現実との相違があるほどに不自由なのは、 外観再決定ポーション>を使用してまで、姿を現実に沿わせたアカツキの一件でもよくわかる。

普通のヒトガタでも苦労があるのに、そもそも種族が違うにゃん太など獣型は、大丈夫なのかという、素朴な疑問だった。体格自体は現実と大差ないとしても、あまりに決定的な差があるのは明確なのだ。

――もふもふとかもふもふとかもふもふとか。

全身をくまなく見たわけではないが、あの優美な緑のコートの下は、軟らかい毛で包まれているのは確かだ。一番使うだろう手に肉球がないのは残念……もとい、確認済みだが足の裏はまだ見ていない。
靴を履かず、足音をたてずに歩くしなやかなそれは、やはり人間のものとは違う気がするのだ。

「歩き辛くなかった?」
「意外と平気だったにゃ」

にゃん太は、手にしていた差し入れようのティーポットをサイドテーブルに置くと、シロエの側にそっと寄る。しなやかに歩きながら。
見上げるシロエからは、やはり穏やかな笑顔しか見えない。けれど、ご隠居とも呼ばれる年上の友人は、どんな綻びも決して面に出さない気がした。
それは、シロエにとって頼れる心強さであると同時に、同じ場所に立てない寂しさでもある。そんな大人のにゃん太だから、側にいてほしいのだけれど、最近はそれが妙にひっかかるのだ。

――僕にとって班長は特別なんだけど、班長はそうでもないのかな。

「聞きたいのに」

他のメンバーに見せる顔と、シロエに見せる顔は変わらない。それがにゃん太という人物なのだけれど、どこかもどかしい気持ちになるのが、今のシロエだった。

この世界でやるべきことは、抱えきれない程にある。本来構っていられないような、僅かな心のささくれなのだが、にゃん太と二人きりになると、なんだかそれが疼いた。

「シロエちは、お疲れなのにゃ」

不意に降ってきた渋く優しい声に、思考が遮られる。

「疲れていると、色々考え事がまとまらないのにゃ」

まるで、思いを全て見抜かれているようで、シロエは慌てて目をそらす。
さっきまで頭を巡っていたのは、確かに考えても仕方のない事だ。自覚はあるだけに、余計に恥ずかしい。

たぶん。
僕は特別扱いされたいんだ。

ただ、にゃん太だけには。

ふわりとにゃん太の手が頭に触れる。子供をあやすように撫でられるのは嫌だと思ったシロエの前に、身を屈めたにゃん太は顔を寄せ、いたずらげに片目を閉じて見せた。

「そうだにゃ、多分、不便だろうと思う事が一つあるのにゃ。試していいかにゃ?」

えらく近い顔の距離に息を止めて、シロエはおずおずと頷く。にゃん太のヒゲがさわりと触れて、くすぐったい。
そのまま、にゃん太の顔はシロエに近づき。

もふ。

もふもふしたものが、シロエの唇に触れた。
えもいわれぬ幸福感。もふもふの癒し。

――ああああぁー! ちっがうー! 違うって!

これはきっとキスのはずだ。ドキドキそわそわの、にゃん太からの「特別」の印。ぎゅうと胸を締め付ける独占欲と、時々せららに抱く黒い嫉妬を振り払える、唯一の魔法をシロエは今確かに手にしたはずなのだ。

けれど、身体は抗えない。目の前にある癒しの塊、もふもふに引き込まれる。手を伸ばしてにゃん太の顔に頬をつけた。

「あー、もふもふー」

「だから言ったにゃ、シロエちはお疲れなのにゃ」

そっと体を引き剥がされ、にゃん太の熱が離れていく。

――違うのに、キスされて嬉しいのに、どうして癒されてんの、僕は。

側に寄った時と同じように、にゃん太はしなやかに離れていきティーポットを手に、そっとわらった。

「やはり、恋をするには不自由な体にゃ」


恐るべし、もふもふの魔法。
シロエが癒しよりも情欲を優先する日は、来るとか来ないとか。



おわり

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ