鬼閻 艶
□捻れ接続
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いつもの机についている上司はなんだか思いっきりだらけている。
元々猫背気味な背中は完全に曲がって、はだけた上着、左肩のあたりからにょきっと眷属が出てきており、説教などかましている。
いい年して世話係が職場に説教にくるってのがダメ上司のダメたる所以だろう。
甲高い声でかりかり怒っている世話係に、大王はなんだかぼうっとしながら受け答え。
「いい加減、一度お帰りください、ヤマ様」
「うんうん」
「そろそろ限界の筈です」
「はいはい。
あ、鬼男君ー、この書類差し戻しして、なんかこれ変だ」
受け取った書類は確かにちょっと数字が合わない。って話くらい聞いてやれよ。
書記長気絶させたり、裁いていた死者をビビらせたり、大概コイツも主人動揺にフリーダムだけれど、過保護を除けばそう話が分からない奴でもないんだから。多分。
「ヤマ様!」
鼓膜を破壊するような声に、黒々とした眉が寄せられた。
それにしても、ちょっとしたホラーだよな、肩から骸骨。
これで裁いたら、少しは悪人も観念するかもしれない。裁くはずの大王が説教されてるのを除けばって話だけれども。全く、いちいち締まらない上司で困る。
「トゥルダク、オレも子供じゃないんだから、自分でマズいと思ったらちゃんと帰るってば。
今帰ったら鬼男君に半殺しにされちゃう」
勿論、やります。
どんだけ忙しいと思ってんだか。
このところ三ヶ月は僕も大王も休みなしだ。労働基準法も形無し。
「もう!
僕、怒りますよ?お役所ぶっ壊しますよ?」
「それじゃあ余計帰れないって」
苦笑いをする大王に、眷属はうっと詰まり、何もない眼窪を僕に向けた。
「鬼男さんからも何か言ってくださいよ!」
「…否、僕に言われても困りますから」
天部としての上司のことはあまり知らない。
僕が仕えているのはあくまで、暗黒界主宰神である閻魔大王。外院南方守護十二天が一人焔摩天でも、人類の始祖ヤマ神でもない。
その御大層な肩書きを持つオッサンは物憂げな表情で頬杖をつき、視線を書類から、中空に転じる。
最近、なんとなく疲れが残るのか、だるそうにしているのはよく知っているが、大王の調子と死者の数は全くもって無関係だ。
仕事は山積みであるし、その山は一分一秒で刻々と増え続ける。
うんざりするのはわかるけれど、そのだらけきったその表情は、地獄の総司としてどんなもんだ。
背骨を逆海老反りにしてやりたくなる。さぞかしバキバキ音がするだろう。
「そういえば、最近、牛に会ってないなあ。どうしてる?」
「闘牛になるそうです、今訓練中だとか」
「それは勘弁してほしい。なんか乗せてくれなくなりそう」
闘牛って、自己申告でなるもんなのか?
心の底からどうでもいい話だ。
「だーかーらっ!
お帰りくださいと申し上げているんですっ」
「…耳元で騒がないでよトゥルダク、キンキンする」
至近距離ゼロメートル。あれだけ大きな声を出されれば結構くるだろう。
僕もちょっとキンっときた。何せ、この眷属の声は高いから響く。女子高生の黄色い悲鳴といい勝負が出来る超音波なんだ。
「もう!
何かあってからでは遅いんですよっヤマ様っ」
「大したことにはなんないんだし、そんなに怒んなくてもいいじゃんか。
あ、ほらほらもうすぐサーラメーヤにご飯あげなきゃだよ?」
「…ちゃんとお帰りくださいよ?」
「うー、終わったらね」
やる気がなさそうな気だるい声に、世話係は大儀そうな溜め息を吐く。こひゅーと間が抜けた音がした。
「仕方ないですね。では、失礼します。
もしもの時は、頼みますよ鬼男さん」
世話係はしゅるんと肩に戻った。
一体どういう仕組みになっているのかは知らないが、トゥルダクは毎回そこから出入りする。
どうやら夜摩天に直結しているらしい。それ、なんか意味があるんだろうか。
「いいんですか?」
「まあ、仕方ないっしょ?
オレの個人的問題で仕事休めないじゃんか」
まあ、それはそうなのだけども。
どうしてか上天の本宅にはあまり帰りたがらないのだけど、一定期間帰らないとなんらかしら不都合があるらしく、たまにああして喚びに来る。その度に渋りはするけれど、一週間もすれば帰る。
以前など、業を煮やしたトゥルダクがサーラメーヤをけしかけてきて人浚いよろしく強奪してったことがあるらしい。
あの犬たちは大王最古の眷族だけあって、そんじょそこらの獄卒よりもずっと強い。
閻魔王庁を半壊させてのご帰還は控えてほしい。
仕事の重要性がわからない筈はないトゥルダクがそこまでやらにはなんらかしら理由はあるんだろうけれども。
「大王、」
「ンー今集中してるからー」
話しかけるなと言いたげだけれども、それはあっさり打破しておく。無用な気遣いがどれだけ無駄かは骨身に染みているのだし。
「なんで帰らないとマズいんですか?」
「あえて訊くかそこ…あんまし言いたくないんだけどな」
上着を直し、何故だか上司は頬を染めた。そこ、そういう顔するとこか。
無駄に心臓が跳ね上がる。落ち着け、これくらい慣れっこになれないでどうする!
大体、セーラー服のコレクション見られたって恥いるなんてそぶりが微塵もないくせに。ピンク色のほっぺたは妙に艶やかだ。
「ききたい?」
「そりゃあ、僕はあんたの秘書ですから、一応きく権利あると思いますが?」
それは、あくまでも言い訳だけれども。
頬杖をついたままの上司はまた、書類に目を戻す。頬からは全然赤みがひかない。酒を飲んだわけでもないのに、風邪か?
「ひかない?」
風邪を?と聞き返しかけたけれど、どうやら違うらしい。
退かない?と訊いたらしい。
「大体において退ききっちゃってますから、もう退けません」
「なにそのトドメ…」
打たれ弱いのは、多分周りに甘やかされ過ぎているからなんだろう。わからないでもないけども。
そのわりに懲りないのだから、いい根性してる。アルミ缶か、さもなければペットボトル。凹んでもすぐ元通りだ。
「オレの所在地って三つあるんだけどさ」
「ここ中有と、夜摩天と兜率天ですね」
「うん、あたり。
流石は鬼男君」
一向に減らない書類に判を捺しながら上司は続ける。どうにも目を逸らしたいらしい。
いつ入れたかわからないお茶はぬるくて苦い。その苦さとにたような口調で上司は淡々と続ける。
「いずれにしても六欲界、五欲はあるんだよ。
名誉欲と財欲はおいといてオレには睡眠も必要だし、食欲も……性欲も一応ある」
「ぶっ!」
爆弾投下。
予想外の方向。
「きったないな!
ほら、タオル!」
放り投げられたタオルがか顔にぶつかり墜落した。
「だから、ひかないかって訊いたのに…」
頬を膨らませながら上司はボヤく。尖った唇が妙に赤い。
甘やかしたがる周りの気持ちが、僕にもわからないでもないと思うのはこんな時だ。相変わらず赤いほっぺたのせいでやたらに血色よく見える。普段はいいとこ半病人なのに。
「あんた、居眠りもするし、ご飯も食べてますよね?菓子類ばっかですけど」
「うん」
ってことは、だ。
「あんまり訊きたかないですが」
「じゃあ訊かないでよ…」
「性欲の方ですか」
「結局訊くんかい!
あー、そうですよ性欲ですよ!菩薩でも性欲あるんですよ!
悪いかこの野郎」
「騒ぐなっ」
思わずタオルを投げ返した。顔にヒット。
自業自得だ、イカ野郎!性欲性欲連呼すんな、吃驚すんだろ!
こちとら若いんだよっ!
「ひぃん、恩を仇で返しやがった!気持ち悪いぃ」
「泣くな気色悪いっ」
勢いに負けて椅子から転がり落ちた上司はびすびす泣き出す。どんな生き物だ、あんたは。どこでそういう仕草を手に入れてくるんだろう。そのスキルいるのか?
大体、
「あんたの女性関係ってイマイチ、ピンと来ないんですけども」
性犯罪が何より嫌いなのは知っている。
盗みよりも邪淫の方がよっぽど許せない、盗みは必要な場合もあるかもしれないけども、邪淫は違うだろうと軽蔑しきった目で言っていたのを知っている。
こないだも強姦魔が来たときには大層なブチギレ具合だった。
そりゃあ、下劣な犯罪だと僕も思う。
『あんたも男ならわかんだろ?』
なんて同意を求めたのは大間違いで、
『知るか、バカ。もーバーカ!
君が鬼畜だなんて鬼と動物に失礼だ。
そこに一人いるから謝るといい、この下衆、肩からウンコもらせっ』
本当に足で頭踏みつけて謝らせたんだから凄い。
新聞にそう書かれていたのを閻魔帳で確認したのか朝っぱらから大層な立腹具合だった。
『お前のような最低野郎はお天道様が許してもオレが許さない。
精々、因果応報を味わうがいいさ』
で、一蹴。
地獄穴に真っ逆さまだ。あれはもう、かなり強烈な蹴りだった。
反動で落っこちそうになってなきゃ、少しはかっこよかったのに。まあ、その辺が大王イカだ。
どっちかっていうまでもなく、女性職員に混じってお茶しちゃう位の男だ。ピンとこない。すごい勢いでピンとこない。
「…その、夜摩天では、時間かかるけど、ただそこにいるだけでいいし、兜率天では誰かにちょこっと抱きつくだけで全部果たせるから、…」
モジモジと手をいじくる。なんか、中学生の性生活訊いてるみたいだ。ありえねえ。
「で、こっちではどうすんですか?」
「えっ、なにこの羞恥責め………、うっ、やるとしたら普通に、だけど…、オレは…やりたくない、な。
なんか、押しつけっぽいし」
まあ、最高責任者の権力を振りかざそうとするのは子供じみたアホ行為の時だけで、そういうことに使ってるのは見たことがない。
…もう少し、一般常識があればそう悪くもないんだけれど。
いそいそと亀のように椅子に戻り、僕から視線を逸らす。
そんなに恥じなくてもいいんじゃないだろうか?
僕ら鬼だって、猥談くらいするし、そう恥ずかしがることでもないだろうに。
「大王、大丈夫ですか?」
赤くなりすぎた顔をふるふる横に振る。体まで細かく震えている。
「ヤバいかもしんない…」
泣きそうな顔で僕を見上げる。
いつもより少しはだけたままの胸元から梵字が浮かび上がっているのが見えた。
普段は冷たい体が熱を帯びる時だけ浮き上がる筈で、酒も口にしてないのに、それはおかしい。
「おにおくん…」
「ちょっ、やっぱ熱あるんじゃないですか?」
額に触ると案の定だ。なんだかこのところ、だるそうにしているとは思っていたのだけども。
小さく声を上げて、僕の腕を引く。
かなり熱が高い。
ドンドン上昇しているみたいだ。
「大王?
ちょっ、ちょっと、大丈夫ですか?」
「だめ、かもしんない…。
ね、鬼男君」
いつもは冷たい筈の両手が僕の頬を挟んだ。
引き寄せられて突き合わせた顔は、いつもと同じ筈なのに、見たことない表情を浮かべている。
「悪いんだけど、ね、一回でいいから、ちゃんと忘れさしてあげるから」
頬からスルリと腕は首に回る。
媚びるような、甘えているようなその声はいつものものと違う。
なんだ、これは。
白昼夢か。
「抱いて」
真っ昼間からなんちゅう夢見とるんだ僕は。
艶びた表情を浮かべた大王は、僕の耳を軽く噛んだ。
…どうやら、夢じゃないらしい。
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