記念物

□「風が吹いた日」
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 朝の喧騒を遠巻きに眺めながら、嵐は徐々に覚醒してゆく頭に嫌悪感を抱いた。このまま睡魔と共に帰宅し、ともすれば布団に戻りたい心境である。

 しかし、と自身の姿を見つめ直して嘆息する。鴉も驚く上下黒のスーツに紺のネクタイ、黒の革靴、鞄まで黒とあってはどこの葬式に行くのかと疑われそうなので、灰色のものを足元に置いている。この姿で帰宅すれば目立つことこの上ない。

 短くなった煙草を灰皿に押しつけ、新たな煙草を取り出して火をつける。灰皿には既に、こうして頭を短くした煙草たちが何本も押し込まれていた。

 朝の喫茶店で時間潰しに要する煙草の量は、常に比べて多い。母親がいたく心配していたが、こうでもして気分に踏ん切りをつけなければ、この足は職場まで向かうことを躊躇うだろう。

 頼んだコーヒーも口をつけぬままぬるくなり、うらめしそうな面持ちで嵐を見上げていた。茶色い液体に映る自分の顔に苦笑をもらす。さえない顔だ。煙草の吸い過ぎによるものならどうにかしようもあるが、それによるものではないことを嵐は熟知していた。気付かぬ方が精神的に良かったのだろうが。

 視線をもう一度外に向ける。人の波は途絶えることを知らない。次から次へと鴉の集団が、今日のノルマを果たすべく歩いていく。足早な彼らが喫茶店の嵐に気付くことはほとんどなかった。稀に視線が合っても、即座に顔を前に戻すだけである。他人にまで興味を払っていられないのだろう。そんな彼らが少し羨ましくもあった。

 嵐とて、他人に興味を払っていられるほど余裕があるわけでもない。しかし見えてしまうのである。目に入ってしまうものに、自身の感覚が向いてしまうことを止めることは出来ない。

 それは言葉を変えて状況を変えれば恋と言えるのだろうが、生憎そんな可愛らしいものとは程遠かった。

 どうしようもなく目につく彼等。道行く人々の肩や足や、せわしく動く手の向こうに見える彼等を、嵐は今も感じ取っていた。

――行くか。

 体内に残るニコチンを吐き出すべく、大きく息を吐く。同時に、まだ残る甘さも吐き出した。周囲からの影響を受けぬよう、不必要な感情を一つずつ遮断していく。そうすることで自分を守るのだった。
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