Other
□SS集。
2ページ/3ページ
「Zero-Sum-Game」R-15
艶やかに濡れた漆黒の髪が、彼の首元に纏わりついて弛む。
彼女――否、彼が、椅子に腰掛け、首ほどまで伸びた髪を一房手に取って、溜め息を吐いた。
そして、やがてその秘かな吐息も、夜風に紛れて、どこか遠くへ消えていく。
その行方をぼんやりと見送った後、ゆっくりと長い睫毛の瞳を閉じながら、頭を垂れて俯いた。
「随分と髪が伸びたな……」
独り言を呟くかのような声量でそう呟くと、手に取った一房の髪を束の中に放す。
自分はというと、それに対する的確な言葉が見つからず、その独り言のような声に気づかないふりをしたまま、彼の手の中にあった髪の束を梳く。
「ねえ」
一方、彼は無視されたことに気を悪くしたらしく、少しばかり怒気を孕んだ声で、こちらに呼び掛けた。
「はい」
対して、低く短い声で返答する。
今、この手の中にいる彼は、自分の手で如何ほどにもなるのだなと思いながら。
「長い髪は重たくてならない。早く切ってしまいたい」
「なりません。旦那様の意向です」
彼の提案をばっさりとこき下ろすと、彼は小さく舌打ちをした。
「それって、ただの性癖だろ。変態め。自分の子にまで性癖を押し付けるなんて、気持ち悪い」
「旦那様を侮辱なさるのは、感心しませんね」
「……お前だって、あんな奴、嫌いなくせに」
そうして、暫く無心で彼の髪を梳き続けていたが、唐突に何かを思い出したかように、そういえば、と呟く。
だが、その口ぶりは、どこか嫌味ったらしさが感じられる。
自分も大概ではあると思うが、彼も大概で、いつも腹の内に何を抱えているか分からない。
そんな彼の二の次に紡ぎ出される言葉を、少しばかり不安に思いながら待つ。
「お前の母親も、髪が長かったな」
どうやら、彼の不快感をさらに掻き立て、煽ってしまったようだ。
無表情、無感情を貫き通す、冷徹な人間を演じていたはずだったのだが、忘れようとしていた心の傷の瘡蓋を抉られてしまったことで動揺し、櫛を忙しなく動かしていた手がぴたりと静止する。
またしても返答に迷ってしまい、暫し俯いていたが、少しずつ調子を取り戻そうと、また何事もなかったかのように、櫛で髪を梳き始める。
こんな年端のいかない子どもの戯言に惑わされてはいけないと、自分に言い聞かせながら。
「俺たちなんて、生まれて来なければよかったんだ。そうすれば、こんな苦しみを味わうことなんてなかった。お前だってそうだろ」
身勝手で、自分のことしか考えない自己中心的な彼を、どうすれば、彼を怒らせたり、悲しませたりすることなく、平静に持ち込むことができるかだけを考えればいい。
そう、それだけでいい。
彼に振り回されて悩む必要など、どこにもない。
むしろ、振り回して、心を動かしてやらなければならない。
鼻腔を擽る彼の髪の甘い香りに抗い、後続する言葉を考える。
彼のいない世界は、自分にとって、この世の終わりにも等しいものなのだと伝えるために。
「私は、例え身内に恵まれずとも、貴方様がこの世に居らせられるなら、それだけで幸福の至りであります。ですから、貴方様に巡り合わせて下さった旦那様には、感謝してもしきれない気持ちでございます。ましてや、身寄りのないチサイ家の人間を、使用人として拾って救って下さったのも、あの方なのです。あの方は、チサイ家一族の救世主です。あの方がいなければ、きっと私も――」
「そんなのは綺麗事だ!」
唐突に声を張り上げ、膝の上に置いていた拳を強く握り締めて、叩きつける。
その衝撃で、肩に掛けていた白い布が、散華するがごとく膝の上にひらりと落ちた。
「アイツはチサイ家に手を出した! 禁忌を犯した! そのせいで、お前は苦しんでいる!」
“彼”が、本当に“彼”なら、こんなことは絶対に思わないだろう。それこそまさに、“綺麗事”だ。
「……貴方様には、一生分からないでしょう。男という愚昧で矮小な生き物は、死ぬまで永遠に欲が尽きないことを」
怒りに狂い、我を忘れかけていた彼が、“男”という単語にはっとし、思わず、両の手を自分の胸を覆い隠した。
拳を解いて汗ばんだ手の平には、わずかに膨らみ始めた双丘の柔らかさと温かさを感じる。
また膨らみが大きくなったような――そんな気がしたが、それを信じたくなくて、首を何度も横に振り、唇を血が滲むほどきつく噛み締めた。
「……馬鹿にするな」
悔しげに、忌々しげに、喉の奥から絞り出した声は、不自然なほどに震えていた。
“彼”にとって、これ以上の侮辱はないだろうなと思いながら、激昂する彼の肩に触れ、無作法を詫びる。
その耳元を掠めた低い吐息交じりの声と、首筋から肩を舐めるように撫でた右手に困惑し、甘やかな嬌声にも似た、情けない素っ頓狂な声が漏れた。
もはや、彼の耳に櫛の落ちた高い音など聞こえているはずがない。
「旦那様のされた方を、肯定するつもりではございません。ですが、私の母もまた、旦那様と同じくして、下劣な情欲の海に飛び込み、チサイ家を巻き添えに溺れ沈んだ、哀れな女に過ぎません」
肩先を撫で回していた指先を滑らせ、繊細で柔軟な両の胸を覆い隠す彼の手の甲に触れると、その震える手を握り締める。
些か、怖がらせてしまったようだが、恐怖で人を支配することもまた、人を懐柔する手立てだ。
――いや、この場合はどうだろう。
「それゆえ、どうか、お嬢様」
今できる、なるべく優しい声色で囁く。
髪から垂れた涙で濡れた頬に触れている左手は、そこから伝わる温もりで、手を握っている右手よりも心なしか熱い。
「貴方様がどうか、そんな“女”にならないことを切望しております」
そう言って、彼の身体に触れていた両手を離すと、絨毯の敷かれた床に落ちた櫛を拾い上げ、また、何事もなかったかのように、彼の濡れた艶やかな髪に触れようとした。
だが、その手はいとも容易く払い除けられる。
「もういい、下がってくれ。ひとりになりたい」
「まだこれから、髪を乾かすところですが」
「いいから、俺に考える時間をくれ……!」
大袈裟に顔を両手で隠し、手の中で篭ってしまった声を張り上げて、そう突き放すと、椅子の上で膝を抱えて黙り込む。
つい先ほどまでの威勢の良さが、嘘のようにしな垂れてしまって、どこか滑稽だ。
「お召し物をこちらに失礼します。お風邪を召されませんよう、お早めにお着替え下さい」
「分かったから……もういいから……」
消え入りそうな声を背中に受けながら、彼だけが残された部屋を後にする。
軋む音を響かせて、ゆっくりと閉まっていく扉が、彼をさらに怯えさせていないか、少しばかり不安に思いながら。
閉じた扉を背に長い息を吐くと、扉に沿って、ずるずると力なく崩れる。
凭れ掛かった扉に全体重を乗せると、ぼんやりと虚空を見つめた。
その先には、ここにはいない、扉の向こうにいる彼の顔がそこにある。
こんな幻覚が見えてしまうのは、恥じらいを覚えた彼女――否、彼に、自分が落ちていくのを、途中から薄々と感じていたのを、まざまざと思い知らされたからだ。
恐怖で彼を支配するまではよかった。そこで止めておけばいいのだと分かっていた。
それなのに、もっと彼の心の奥深くを知りたくなってしまった。
赤らんだ頬をした彼の横顔の幻を視界から消してしまおうと、一心不乱に髪を掻き毟ったが、空しさに苛まれ、またしても長い嘆息を吐き、途方に暮れる。
哀れだと吐き捨てて嗤った父母と何ひとつ変わりやない。所詮、人は血に抗えないというのか。
ああ、それにしても。
(心と身体が反比例しておれど、さっきまでのあの方は――)
間違いなく、自分と同じには見えなかった。
あれは、女の顔だ。
ゆえに、自分も彼に、足元を掬われそうになった。
無意識に悔恨と屈辱を呟いて、その次に震える唇が、声にならない声を呟く。
その言葉は誰にも聞こえていない。
ましてや、扉の向こうで膝を抱えている彼の耳にも。
End 2014.8.6.Wed.
診断っ子紹介にいる、コウサ ツイとチサイ ハテの小話。
ツイを嫌いになりたくて、自分の中で葛藤し、最終的に彼を突き放して、彼に勝ったと錯覚することはできるんだけど、結局、それが、「ああ、あんなことしたんだろう」って、自分に返ってくる、ひとりきりのゼロサムゲーム。