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□SS集。
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「梔子」



 僕は棺の上にそっと梔子の花束を捧げた。
 いつか、こうなってしまうことくらい、予想できていた。
 それが、遠い未来か近い未来かは分からなかったが、いつか別れが来るということを。
 だが、それには、あまりにも早すぎた。

 静かな夕暮れを見つめながら、このまま時が過ぎなければいい、と心の中で小さく願った。
 時が過ぎなければ……彼女を覚えていてくれる人が減らないのだから。

 夏の終わりを告げる寂しげな風が、そっと僕の髪をすり抜けた。





 その日、僕は人通りの減りつつある、夕暮れのバザールを歩いていた。
 夕飯の買い物を済ませ、帰路についていると、少女が花を携えて、道行く人々に声を掛けていた。
 しかし、それに耳を貸す者は誰一人としていない。それもそうだ。みんな今日の仕事を終え、早く家に帰って眠りたいのだから。
(それにこの辺りも貧しい人や、他の町から移動してきた人、増えただろうし)
 あのときの僕には、彼女に対して、そんな気持ちしかなく、傍観者的な態度で彼女を見ていた。
 籠いっぱいの花を売り、ただ生きることに必死な彼女を、哀れむような目で。
 これでは、まるで彼女を無視して行く人々と同じ……いや、もしかすると、それ以下かも知れない。
 最悪だ。だが、それを止めることはできなかった。


 今、この国では、醜い内乱が絶えない。偉い人間の理不尽さに、あらゆる人が立ち上がり、反逆する戦いだ。
 僕が故郷の村で見た戦い。それは、空は燃え盛る炎と硝煙に覆い尽くされ、目に映るものを全てを焼き払っていく光景だった。
 赤い木の実の色をした屋根の家や、雄大で美しい緑の自然。それらが燃え尽きていく。そして、僕は灰色になった故郷を捨て、今の町へ逃げ込んだ。
 戦火が、あんなに小さな村にまで及んでしまった。
 なぜ罪のない人間まで、戦火の中に消えなければならなかったのか。今の町を見て、ますます思う。
 この町は花と風が香る穏やかな街だ。虹のように色とりどりの屋根、日差しを受けて燦々と輝く木々。そして、子供の楽しそうに遊ぶ声は蝉時雨のように響き渡る。
 しかし、この鮮やかな町も、いつ戦火の中に消え失せてしまうか分からない。そう考えると、この町も少し荒んでいるようにも見える。
 そんな世界に生きている僕はどうすればいいのだろう。
 僕だって生きることに必死なはずだ。それなのに、それなのに……。



 案の定、僕のところに、彼女はやって来た。
 彼女を見ていると胸が締め付けられるような思いになり、逃げ出したくなったが、うまく身体が動かない。
 そうしている間に、僕は話しかけられてしまった。
「お花、買いませんか?」
 鈴のような凛とした高い声。大きく見開いた栗色の瞳と髪を持ち、くすんだ赤色の地味なワンピースを着ている。ところどころに、まだ明るい赤色のつぎはぎも見受けられた。彼女も僕と同じように、貧しいのだ。
 接客には慣れていないのか、上目遣いで僕の瞳を真っ直ぐに見つめながら、困惑したような表情をしている。
 そんな彼女の熱い視線に巻け、思わず、財布の紐を緩めてしまった。まぁ、明日の夕飯のおかずを一品減らせばいいだろう。
「どれになさいますか? あまりいいお花はないですが」
 悲しそうに微笑みながら、彼女は僕の言葉を待っていた。
 花の名前を知らず、迷っている僕を見、彼女はくすくすと笑いながら、一輪の花を取り出した。
「この花なんてどうでしょう? 今の時期にぴったりな梔子の花です」
 どんな砂糖菓子も勝ることができないほどの甘い香り。そして、洗い立てのシーツのように、清潔で真っ白な花弁。
 花に少しも興味を示したことがない僕が、一目で気に入ってしまうほど、可憐で美麗だ。
「じゃあ、それで」
 お金と引き換えに一輪の梔子を受け取ると、彼女はにこやかに微笑んだ。
「梔子の花 甘い香りが喜びを運び 誰かの元に喜びが届いたとき 私はとても嬉しい」
 突然歌い出した彼女に、僕は開いた口が塞がりそうにもなかった。
 こんな町のど真ん中で、いきなりどうしたのかと、おどおどしてしまう。
「梔子の花言葉の歌、ご存知でないですか? たまにこの街の噴水広場に来る、詩人さんの歌です」
 知るわけがない。僕はつい先日、戦火の中に消えた故郷を離れ、この町に越して来たのだから。
 まだ、この町のこともよく分かっていないが、観光をするほど、時間と金銭に余裕はない。
「また近いうちに来られるそうです。その時に、また会えるといいですね」
 何だろう、この気持ち。なぜかは分からないが、もう一度、彼女に会えそうな気がした。
 手に持った梔子の花が、何かを告げるようにそよそよと、甘い香りを漂わせながら揺れている。
 だが、今はそれを知る余地もなかった。




 それから数日、その日は、町がいつもより賑やかだった。
 大通りやバザールはいつも賑やかなのだが、この賑やかさは初めてだ。
 どうやら、大通りの近くの噴水広場で何かが行われているらしい。特に興味があったわけではなかったが、僕の足は言うことを聞きそうもなかった。
 人々は噴水広場に向かっている様子で、場所が分からなくても、人ごみの流れに身を任せていれば、すぐに場所が分かる。
 そこには、くすんだ赤いワンピース姿の少女がいた。どこで出会ったかは忘れたが、つい最近出会ったような気がする。
 彼女も僕を知っているのか、遠くから大げさに手招きしていた。
「こちらですよ」
 彼女は、無数の人が集まる中から、僕だけを選んで、手を取る。
 宝石のようにキラキラとした笑顔、艶やかな栗色の髪と、大きく見開いた髪と同じ色の瞳……やはり知っている。だが、思い出せない。
 彼女に手を引かれたまま、僕の知らない場所まで来てしまった。誰も知らないような抜け道を行き、薄明るい路地裏に出る。
 とある一軒の家に立て掛けられた木のはしごを昇っていくと、熟れた葡萄色の屋根の上に辿り着いた。
「ほら、見て下さい。町が一望できますよ」
 僕は彼女が指差した方向を見てみる。言われた通り、町を一望することができた。
 言葉がを失ってしまった。なぜ荒んでいるように見えたのだろうと、思うほどだ。
 つい絶景に気を取られてしまっていたが、もちろん、噴水広場で行われていることも分かる。
「あの梔子の花、いかがですか?」
 ぼんやりとしていた僕に、彼女は問いかけた。
 それと同時に、彼女がこの間の花売りであったことも思い出す。
「花瓶に入れていたんだけど、今朝見たら、枯れてた」
 躊躇うことも、何かを思うこともなく、僕は普通にそう言った。
「生あるものは、いつか消えます。私に育て摘まれ、あなたに買われ、あなたが少しでも幸せだったなら、梔子だって幸せです」
 本当にそれが事実だと、証明できるものは何もないのに、なぜか説得力がある。
「それに、梔子を朽ち無しとかけている物語もあります。だから、梔子が枯れても朽ちない、なんて」
 彼女の微笑む顔はどこか悲しげだった。やっぱり枯れた、なんて言ってしまったからだろうか。
 そうだ、彼女は花屋ではないか。そんなことを軽々しく言ってしまったら、傷つくに決まっている。
 自分の言葉に後悔し、歯軋りしている僕と彼女の間には、気まずい沈黙が漂う。
 しばらく、無言の時間が続いていたが、その重苦しい静寂を打ち破ったのは、僕でなく彼女だった。
「ここ、私が見つけた特等席なんです。梔子の花言葉の歌をご存知ないと仰っていたので、どうしても教えたくて」
「それで、わざわざ、ここを探したの?」
「いえ、子供の頃に、よくここで遊んでいたんです」
「そうなんだ」
 それからしばらく、彼女は噴水広場から聞こえる演奏に耳を傾けていた。
 時折、彼女は僕の顔を見ながら、にっこりと微笑んだが、僕はなぜだか緊張して、すぐに顔を伏せてしまっていた。
 それでも居心地は悪くはない。むしろ、彼女と一緒にいられることができて、幸せなくらいだった。



 夕方になると、日は音も立てずに落ちていき、空を茜色から夜の色へ染めていく。
 またいつもの静けさが押し寄せ、空を支配していく夕闇が、さらに寂しげに静寂を演出していた。
 薄明るい路地裏は一気に暗くなり、そこから出ると広場に戻って来る。そこからバザールまで続く通りを、僕たちは歩いていた。
 話が尽きることはなかった。この街のことや、ここに住む人々のこと。
 そして、彼女のこと。
「今日、お店は?」
「お休みです。母に休めと言われたので。きっと、母は私があの方のような詩人になりたかったのを、知っているんでしょうね」
 戦が生んだ貧しさゆえ、彼女はそんな生活を強いられたのだろう。けれど、夢のある彼女を、少しだけ羨ましく思った。
 僕は流されるだけの人生を今まで生きてきたように思う。そして、それをずっと変えられない運命なのだと思い続けていた。
 だが、僕は彼女を見て分かった。叶えたいと願って努力をすれば、運命くらい変えられるのではないのかと。
「もし、平和になって、私が詩人になったら、聞きに来て下さいますか?」
 彼女はやんわりと穏やかに笑った。それが、僕には夜の闇に咲く、白い月のような希望にも見えた。
「うん。その時は白い梔子の花束を持って聞きに行くから」
「約束ね?」
「約束だ。絶対に」
 それが、僕の見た最後の彼女だった。
 鈴のような凛とした声、つぎはぎだらけの赤いワンピース、三つ編みにされた髪。
 そして、大きく見開いた、栗色の瞳。
 もう二度と、彼女がその瞳で、僕を見つめることはない。





 僕は彼女の棺の前で、ただ呆然と立ち尽くしていた。掛ける言葉すら、しばらくは見つかりそうもない。
 それなのに、彼女がこの花畑の下の、冷たい土に埋葬されるまで、あと数十分しかない。
 耳の奥には、まだ葬送行進曲が聞こえる中、僕は棺の上に、そっと花束を捧げた。
 こうなってしまうことくらい、予想はできていた。戦の続く世の中なのだから、仕方のないことだとは分かっている。
「君、この子の親族か何かかい?」
 喪服の上着を手に持っている弔問客の男が、僕の肩をぽんと叩いた。
「いえ、友達です。ただの」
 名前も知らない上に、たった数日の付き合いで友達気取りか。なぜだか彼女に申し訳なく思えた。
 しかし、今になって思う。どうして名前を聞かなかったのだろうかと。
 さっきから、情けないほどずっと後悔し通しだ。
「あの花束、君のかい? 何でまた梔子の花束なんか?」
 男は、棺の上にある花束を眺めて、不思議そうな表情を浮かべた。
「彼女から買った花が、この花だったんです。それに、梔子を朽ち無しとかけて」
 ハハ、と乾いた笑い声を上げて、上着を羽織った。きっと、秋の冷たい風が吹き始めたからだ。
 棺の上に置いた梔子の白い花束が、風に揺れながら、また甘い香りを漂わせている。
「でも実際は、死人に口無し、ってな。彼女、仕事の帰り道で襲われて、やられたんだったんだとよ。まぁ、今のご時世じゃ仕方ないことだ。残念だったな、少年」
 返す言葉もなく、僕は血が出るほど唇を噛み締めることしかできなかった。
 ……戦いは、本当に仕方のないことなのだろうか。


 棺が、彼女の育てていた花畑の一角に埋められていった。
 話を聞いたところ、彼女はここで、売り物の花を育てていたらしい。
 女性がすすり泣く中、男性は黙って、棺が埋められていくその光景を眺めていた。
 そんな中で、僕はどんな表情をしていただろう。多分、涙は流していない。彼女を不安にさせたくないという、強い思いがあったから。


 夏の終わりを告げる、寂しげな風で花畑に咲いた花の花弁が、一斉に夕空へと舞い上がって行く。
 あの空のどこかに。彼女はいるのだろうか?
 そんな悲しい疑問が胸に過ったが、誰もその質問を答える人などいない。
 もう少し、梔子の時期は過ぎ、金木犀が蕾を見せる時期が訪れる。
(このまま時が過ぎなければいい。時が過ぎなければ…彼女を覚えていてくれる人が減らないのだから……)
 死人に口無し、か。
 きっと彼女は、どこかで平和を歌っているだろう。
 この世界に届くまで、ずっと歌っていてほしい。彼女や僕が望んだ平和を……。




End


  
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