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□拘束の契
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 拘束の契:第2話(前編) 「Error」


 言葉というのは、魂を持っていて、一度、口にすれば、それを取り消すことは容易ではない。
 それは、人を殺すのと同じように。
 ゆえに、その言葉が、胸に響けば響くほど、心に深い傷を残す。
 取り消して殺しても、傷の痕跡は消えないのだ。

 それほど、愛の言葉とは、痛くて重たい。


 *** 



 異性に恋慕の情を抱かせるということは、意外と簡単なもので、お互いに、いがみ合っている関係であっても、ほぼ見知らぬ関係であっても、身体さえ重ねれば、なぜか互いを知ったような気になれる。
 それはきっと、普段、人に見せない部分を露呈するからだと思う。
 そして、互いに秘密を共有しあうからこそ、自分にとって「特別」だと思わせられる。
 特に、男という思考回路が単純で、愚か極まりない単細胞な生き物は。

 とはいえ、男に抱かれた経験は、当然ながら一度もない。
 ましてや、女の身体で、女として抱かれたことなど、なおさら。
 逆に、男を抱いたことなら何度かある。
 というのも、生前の経験からなのだが、それはさておき。
 無論、抱くのと抱かれるのとでは、わけが違う。

 なので、少しの戸惑いはあった。
 だが、そこに“遊里佳を汚してしまうのではないか”というような、躊躇はなかった。
 彼女の恋人だったから、もうすでに自分が汚している、というのもあったし、彼女は彼にも汚されている、という事実が、頭の中で冷静に理解できていたからだ。

 それに、一番傷ついているのは、他でもない遊里佳だ。
 それに比べたら、自分の悩んでいることの些細なこと。狼狽えていることですら、馬鹿らしくなる。
 そう思えば、次の行程に踏み込むのは、すぐのことだった。


 ***


 白い煙の立ち込める、職場の簡素で粗雑な事務室。
 あまり広くないその部屋の窓には、星一つ見えない真っ暗な黒色が支配する。

 デスクの上のパソコンに向かい、黙々と作業をしていたが、モニターがエラー表示を吐いたことに苛立つと、聖夜は両足を机の上に投げ出し、大きな溜め息を吐く。
 こういう苛々したときには、煙草を吸っていたものなのだが、喫煙をしない遊里佳がそんなものを持っているわけなどない。
 だから、なおのこと苛立ちは消えることなく、延々と募っていくのだった。
 一方、その隣で煙草を吸いながら、キーボードを叩く湊城は、一旦作業を止め、短くなった煙草を灰皿に押し付けて潰した。
 その後、ちらりと聖夜の様子を窺い、機嫌が悪いのを察すると、腫れ物に触れてはいけないとでもいうように、しばらく聖夜と目が合わないよう、机の上に視線を泳がせていた。
「なあ」
 聖夜がそう呼び掛けると、何も言わず、視線だけこちらに向けた。
 表情はというと、やはりいつもと変わらない。ゆえに、彼が今、何を思っているのかすら、読み取ることが困難だ。
「お前、いつ時間あんの」
 そう問い掛けると、眉が微かに動き、目を丸くする。まさか、忘れていたり、惚けていたりするのではなかろうかと、眉を顰める。
「遊里佳と同じ目、遭わせてやっから。忘れたとは言わせねーぞ」
 怒気を孕んだ低い声でそう呟くと、湊城は、「ああ」と頷くように小さく漏らすと、机の端に置いてあった、黒い手帳と赤い革のカバーに入ったスマートフォンを手に取って、交互に見遣る。


 それから少しして、何も予定のない日を見つけたのか、やや難しい顔をしながら、手帳の中のカレンダーの空白を指差して、聖夜に向けて提示した。
 この日以外の予定は、ほぼ埋め尽くされている。
 さらに、それ以外の枠にも、メモ書きがびっしりとなされ、ペンのインクで一面が真っ黒になっている。思っているよりも、喫茶店の店長というのは忙しいらしい。まるで、芸能人のようだ。
「この日はどうだ?」
「いーよ。しっかし、意外と忙しいんだな」
「まーな……」
 深い詮索はしない。別に湊城が忙しかろうが、そうでなかろうが関係はないし、知ったことではない。要は復讐さえ果たせればいいのだから。
「ま、それ以外は任せる。あんまり詳しくねーんだ」
 考えることが億劫で、投げやりに相手に委ねる。
 こちらとしては、そういう雰囲気に持ち込み、やることをやって、こちらを振り向かせればいいだけの、至極単純な話だ。
 今は女性の身体をしているが、中身は男のままなので、男を喜ばせる術は、どんな女よりも知っている。ほんの数ヶ月前までは男をやっていたのだから。
「じゃあ、とりあえず、飯でも食うか。何が好きなんだ?」
「お前の好みでいいよ」
「そうだな……」
 そこから、湊城は何も言葉を発することをせず、話は平行線のまま、何も進展はない。
 事を慎重に進めたいのか、それとも、本当に言葉に詰まっているのか。
 悩んでいるような素振りすら見せない湊城は、二本目の煙草を箱から取り出し、火をつけた。考え事をするときには、煙草がないとダメなタイプなのだろうか。聖夜自身も、生前は喫煙者であったので、その気持ちは分からなくもないが。
「……まあ、そのときの流れでいいか」
 そう言って、湊城は長い煙を吐き出すと、その煙は天井を灰色に染め、やがて虚空を彷徨い、消えていく。
 その宙を舞う煙の行方を、ぼんやりと目で追っていると、静かに針の音を刻む時計が、ふと視界に飛び込んで来る。
 午前三時。
 長い夜の勤務が終わるのも、まだ遠い時間だ。
 この煙のように行方を眩まして、冬の冷たい夜の空へ飛び出して行けたらいいのに、ふと心の中で呟く。
 二人きりの、この気不味い空気は、真冬の寒空の下よりも耐え難く、腹立たしさが募ってしまう。
 冬の夜空に攫われそうな煙を追いかけるように、胸いっぱいに吸い込んで苛立ちを押さえ込むと、湊城が煙草を吸い終えるよりも先に、聖夜は仕事に再び取り掛かろうとする。

 なおも、モニターは真っ青なエラー画面を、こちらに見せ付けてきていた。



 ***



 数日後の夕方。
 駅前のちょっとした花壇の煉瓦に腰掛け、道行く人の往来を見ながら、湊城が来るのを待つ。
 金曜日の夕方とあって、人の流れは、慌しくもどこか賑やかで、世間的に明日が休みであることを、ようやく思い出せたほどだ。
 それにしても、ミニスカートは思ったよりも冷える。事に持ち込み、誘惑するための罠であるとはいえ、慣れないことはするものではないなと、スカートの裾を引っ張ってみたり、靴下をむりやり引き上げてみたりしながら、少しばかり後悔を覚える。
 コートのポケットから手を放せずに、雨か雪の降り出しそうな曇天の空を見つめ、白い息を吐きつつ、小刻みに震えていると、見知った人影が、視界の端に現れた。
「悪い、遅くなった」
 そして、声を聞いて、その人影が完璧に自分の知っている人物だと理解した。
「待つの苦手じゃないし、構わねーよ」
 ポケットから手を出し、地べたに置いた鞄を拾い上げて立ち上がると、そこには異様なほどの軽装な湊城の姿があった。
 思わず、呆気に取られてしまい、まじまじと彼の服装を、上から順番に見定めていく。
 裏地はあるものの、明らかに春か秋くらいに着るだろう薄手の黒いジャケット、タンクトップの上に白いロングTシャツを重ね着し、ちょっとしたダメージ加工のされたジーパンと、よく磨かれたショートブーツを履いている。
 あとは、小綺麗にシルバーのネックレスや、ベルトのバックル、ウォレットチェーンなどで、身なりを整えていた。
 年相当には思えない、というよりかは、ちょっとお洒落に目覚めた、意気がったガキのような服装だなと思いはしたが、とても二十代後半には見えない童顔(目つきは少しきついが)なので、まだ許されるのかも知れない、と、でも評価しておこうか。

 そんな彼を怪訝そうに観察していると、何かを言いたげに、こちらを見つめて首を傾いだので、適当にお茶を濁すと、早々にその場を離れた。
 こんな寒いところに、長居は無用だ。


 ***


 湊城に案内されるがまま、車の助手席に座るよう促されると、お互いに言葉ひとつ発さず、無言のまま、車が走り出した。
 スマートフォンに繋がれているオーディオからは、その静寂を切り裂くような、激しくもどこか鬱々とした詞を叫ぶヴィジュアル系ロックソングや、ディスコやクラブで流れていそうなテクノやトランス、攻撃的なメタルの曲調に、ボーカルの甘い声の乗ったアニメソングなど、ドライブには凡そ不向きで、統一感のないものばかりであった。
 別に彼の趣味や選曲をとやかく言う気はないのだが、これから始まるであろう復讐の幕開けには、少し華がないというか、間抜けすぎているというか、何か物足りなさを感じ、一曲始まるたびに、次の曲はまともであってほしいと願ってしまう。
 そう思った矢先、よく知った曲が車内に流れてきた。
 よく知ったといっても、生前、友人がカラオケで歌っていて知っている程度のものなのだが、ふと懐かしくなり、背もたれに身体を預け、ぼんやりと聞き入る。
 歌詞まで意識して聞いたことがなかったし、そのCDを聞いたことがあったわけでもなかったので、ひどく新鮮味があった。やはり、カラオケの音源と実際の楽器で演奏されたものとでは、歴然とした差がある。
 その反面、歌詞はあまりにも凄惨なもので、歌詞の主人公には愛した恋人がいながら、自分に言い寄って来ることをいいことに、その女の身体で自身の持て余した欲を満たすも、愛してはいないから傍にいることはできない、といったようなものだった。
 まるで、目の前にいるこの悪魔のような男と、自分がかつて愛した女性を歌っているかのようではないか。
 ふざけるな、と、唇だけで呟きながら、その曲の終わりが来るのを待っていると、湊城が車のハンドルを握ったまま、「なあ」と、聖夜に呼び掛ける。
「さみぃし、あったかいものでも食うか?」
「え? あぁ、うん」
 唐突に話し掛けられたので、一瞬、気の抜けた声が出てしまった上に、何を言われたのかすらも分からず、適当に相槌を打ち、我に返る。
 そのついで、ふと吹き飛んでは流れて去る風景を見ると、人っ子ひとりいない寂れた海岸の風景の向こうに、信号待ちをしながら、煙草をふかす湊城の、どこか怯えているような横顔が、薄らぼんやりと映った。
 本当はきっと、この曲の主人公のような真似はできない臆病者なのだろう。それが何だか可笑しく思えてしまい、必死に笑みを噛み殺した。


 ***


 すっかり日が落ち、辺りが夜の闇に包まれた頃、二人は暖房の効いたラーメン屋を後にし、再び車へ乗り込んだ。
「金払わなくていいの?」
「いいよ。気にすんな」
「ふぅん。で、結構いい時間になってきたけど、この後はどうすんの?」
 唇をきつく噛み締めたまま、その質問には答えず、俯きがちに無言で車のエンジンをかけると、そそくさと駐車場を後にする。
 質問などされなくても、逃げる気はないらしい。
 逃げずに腹を括ったことは、まず褒めてやろうかと、心の内でそう呟いて、シートベルトのロック音を静かに鳴らした。


 色とりどりの街の明かりが煌々とさざめく繁華街を抜け、人通りの少ない静かな通りへ出る。
 横目で人の行き交う光景を見ていたが、仲睦まじいカップルが手を繋いだり、抱き合ったりしながら、すぐにキラキラとした建物の中へ消えていく。
 その姿は、あまりにも甘くて、懐かしくて、自身の生前――遊里佳との過去を彷彿とさせられる。
 首から提げた銀色の輪と、遊里佳と同じ顔をした自分が、バックミラーに映り込み、その思い出はさらに鮮明に蘇り、胸の中で複雑な渦を描いていた。
 叫びたいほどの衝動に駆られていると、何度か肩を叩かれ、はっとして、声を掛けようとしようとするよりも先に、湊城の心配そうな声が飛び込む。
「どうした? 車酔いでもしたか?」
「――ん、ああ。へーきへーき……」
 感傷に浸っている暇などない。
 もうあの日に戻ることはできない。
 そう心に言い聞かせながら、勢いよく車の扉を閉めると、吐いた溜め息の音すらよく響く駐車場の冷たい地面に、慣れないヒールの爪先を下ろす。
 少しふらつきながらも、何とか地に足をつけると、車にロックをかけた湊城が、キーをジャケットのポケットにしまいながら、こちらに向かって、もう片方の手を差し出す。
「こけんなよ」
「こけるかよ、ばーか」
 差し出された手を払い退けると、湊城よりも先に、わざとらしくヒールの音を高く鳴らしながら歩き出す。
 来客を歓迎する自動音声とインターホンの弾む音が、心臓を大袈裟に震え上がらせ、先に進むことを躊躇わせるが、湊城はいつの間にか、自分よりも先を歩いていた。
 それに気付き、負けじとその背中を追いかけようと、足を一歩踏み出すと、振り向いた湊城が手で待つように指示する。
 慣れた手つきでルーム選択のパネルを操作し、満室寸前の有り余ったわずかな中から、どの部屋を選択するか吟味している。
 その最中、手隙になってしまった聖夜は、逸る気持ちを落ち着けようと、待合のソファーに腰掛けて、洒落た造りの内装をしばらく眺めていた。
 花をモチーフにしたであろう、豪勢で絢爛華美なシャンデリア、所狭しと敷き詰められた大理石の床、黒革の柔らかいソファーに、自分の顔がよく見えるほど丁寧に拭かれたガラステーブル。
 まるで、別世界にいるような非日常感を覚える。いや、こういったホテルというのは、そうでないといけないので、それが当然であるのだが……。
 そんなどうでもいいことを、うだうだと考えていると、ルームキーを借りた湊城がやって来て、声を掛けて来た。いつの間に準備したのか、フロントの傍にあるドリンクバーで汲んだ飲み物がふたつ、その手の中にある。
「ほら、行くぞ」
 やけにずっしりと重たいチェーンのついたルームキーを聖夜に投げ渡すと、湊城は足早にエレベーターのある方へ向かって歩き出して行く。
「仕切ってんじゃねぇよ」
 愚痴を漏らしながら、湊城の元へ小走りすると、駆け込み気味にエレベーターに乗り込む。


 もう後にも先にも引けない。
 このエレベーターは、どこまで二人を攫っていくのだろうか。
 そんなことを考えながら、投げつけられたルームキーを、汗ばむ手で震えるほど強く握り締めた。





 End 2015.9.1.Tue.




  
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