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□拘束の契
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 拘束の契:第1話 「Romance」


 恋に破れたその人は泣いていた。
 それは、鼻から叶わなかった恋なのだという。

 その人が、今、何を思っているのか分からない。
 その人が、どんな顔をして泣いているのかも、今はもう分からない。
 ただ、その指に、髪に、背中に、かつて触れて、抱き寄せて、愛した人を、軽率に、浅はかに、何の覚悟を抱くこともなく、一夜を共にしたことが許せなかった。

 “誰も傷つくことのない裏切り”など、この世にありはしない。
 それが例え、わずか一分でも、一時間でも、一夜だとしても、だ。
 そんなことすら知らず、満たされぬ本能と欲望に押し倒され、彼女を一時的に愛して、心を壊した。
 
 今、彼女はこの身体のどこにもいない。
 しなやかな指先にも、艶やかな黒の髪にも、無垢で小さな背中にも、どこにも。
 甘く切ない、一夜の記憶を胸に秘め、ただ、静かに横たわって眠っている。

 たかが一夜。されど一夜。
 互いに満たされない心身を持ち合わせれば、それだけでひとつの恋の契が成立してしまう。
 それが、たったの一夜限りだけだとしても、だ。



 ***


 久々に開いた彼の両の眼が捕えたのは、煌々と輝く蛍光灯の光だった。
 だが、それがそこまで眩く感じなかったのは、窓の外の風景が夜の色に包まれていたからだろうか。
 細めた瞳を改めて見開くと、眼前にか細い煙が立ち上がっているのが見え、そっと火の元に視線を落とした。
 そこには、コーヒーの空き缶があった。飲み口に吸いかけの煙草がひとつ宛がわれ、行き場もなく、煙を漂わせている。
 ……少しばかり、この煙たさが懐かしく、思わず、肺いっぱいに煙を吸い上げ、それをまた吐く。

 さて、と。
 そう呟いて、状況を把握するために、周辺を見回す。
 まず、目の前に飛び込んできたのは二台のパソコン。型はやや古く、不穏な稼動音を立てている。
 そして、山のように積まれたファイルや書類、中にはとても重要そうなものもある。それが、スーパーの広告などに紛れているので、とても滑稽だ。
 後ろを振り向けば、黄ばんだカーテンの仕切りがある。恐らく、向こうは更衣室なのだろう。その布の隙間から、ロッカーが見え隠れしている。
 典型的でありふれた、バイト先のバックルームだ。
 しかし、その散らかりようは、逆にリアルではなく、まるでドラマのセットのようにも思える。
 言うなら、自分がそのドラマの登場人物であるかのように錯覚してしまうほど、今の自分の状態はとてもよくできあがっているように思えた。
 ――と、言えればよかったのだが、先ほどから、脳裏で女性の泣きじゃくる声が延々と響いて止まないのだ。
 声の主は分かっていた。そして、その涙の理由も。
 だから、それが鬱陶しいだとか、邪魔だとかとは思わなかったし、今いる場所について、どうでもよくなるほどには、その事態が深刻に思えたのだ。
 少しずつ、状況が飲み込めてきたところで、燻っている煙ごと空気を深く吸い上げてから、これから起こるであろう展開に、ややうんざりとしながら、気分を落ち着かせる。
 ゆっくりと粗末な椅子代わりの箱から腰を上げて立ち上がると、部屋の天井が思いのほか高く、身体が軽いことに気付き、違和感を覚えた。
(ああ、まだ慣れねーな……)
 そう思いながら、自分の全身を見下ろし、一頻り、見遣った後、彼はふっと鼻で笑った。
 指輪のついていない、しなやかな指先にも。
 洗髪剤特有の甘い芳香を放つ、艶やかな黒の髪にも。
 ――何度も触れて抱き寄せた、懐かしく、無垢で小さな背中にも。
 まだ感覚が追いつかずとも、もうこの身体の中にいるという事実に、一切の驚きはない。


 ***



 彼と『彼女』、二人で命を絶とうとしたあの日。
 ここではないどこかで結ばれようと交わした約束は、二人の望まぬ形で、この現世に体現してしまったのだ。

 彼は肉体を失い、結ばれたいと思う二人の心は、生き残った『彼女』の中で、ひとつになった。
 つまり、『彼女』の肉体の中に、彼と『彼女』、二人分の心が同居しているということになる。

 最初は、居もしない神を呪って恨んだ。
 だが、そうしたところで何も変わらないことに気付きいてからは、不本意でありながらも、次第にそれを受け入れていった。

 後々、それが『彼女』の持つ、特殊な“能力”であることが分かった。
 でも、そんな“能力”を持っていることに、別段驚くことはしなかった。
 というのも、彼が生前、“能力”を持った人間だったためである。
 そして、彼にその“能力”があったからこそ、二人は結ばれることができなかった。

 さらにその後、『彼女』は、この“能力”で、自分の命を救った人物に恩を返したいと言った。
 『彼女』がそれを望むならと、彼も賛成したが、実はそれが、彼女がその恩人たる人物に心惹かれ、近づきたい一心であったことに気がついてしまったのだ。
 だが、それも仕方のないことだと思った。
 いつでもゼロ距離のそばにいるとはいえ、その身体に触れ合うことが叶わないからだ。
 恋愛が、そばで言葉を交わし合うだけで成り立つなどと思ってはいない。だから、これは仕方のないことだ。
 そう知りつつも、嫉妬、怨恨、無念。あらゆる感情が、彼の中をで渦巻き、蠢く。

 だが、その相手への想いが、成就されることはないと知ってから、いつしか考えることをやめた。
 『彼女』には、とても言えなかったが、その恋の結末を予見できていたからである。

 そして、『彼女』が、その恩人たる人物と過ごしてから一夜。
 『彼女』が、胸の閊えを吐き出し、互いを晒け出してから、一週間。

 今、そのときを、彼は迎えている。


 ***



 事態を再確認し、『彼女』の身体が、ようやく馴染み始めた頃、泣きじゃくる『彼女』の声は、いつの間にか聞こえなくなっていた。
 最後に何か囁くような声で呟いていた気がするが、もう思い出せない。
 きっと、自分の中のどこかに消えてしまったのだろう。そして、そこからはしばらく抜け出せない気がする。不思議なことに、それが容易に想像がついた。

 だが、それに悲嘆している時間を、事務所との仕切りになっている暖簾の開いた音が引き裂く。
 その音に続き、やや金色がかった緑の髪の、少し草臥れたスーツを着た男が、申し訳なさそうな声で、「すまんね」と呟きながら現れた。
 口ではそう言いながらも、ばつが悪そうな様子は一切なく、淡々と元いた であろう場所に居直ると、灰に変わっていく煙草を手に取り、唇の端で咥えた。
 煙を吸い上げるときも、吐き捨てるときも、変わらずに無表情を貫いている。

 それ以降は、言葉の一つもなく、重苦しい空気が粛々と流れ続けた。
 狭いバックルームには、秒を刻む針の音だけが空しく響き、その音を聞き入るかのように、互いに俯いて黙っている。
 無言の重圧に耐え切れず、親指の爪を当てていた唇から離し、黙りこくったまま、何かを思案しているその男を、鋭く見据える。

「お前、俺の遊里佳を泣かせて、何したか分かってんのか」
 無意識に出た言葉はそれだった。
 というより、それ以外に何を言えばいいのか、分からなかっただけなのかも知れない。
 その割に、えらく気持ちが落ち着いていて、冷静であるのが、なんとも妙だ。普段は気が短いはずなのに。
「……」
 こちらの怒気と僅かな殺意を孕んだ声が、耳に聞こえたのか、俯けていた顔を静かにこちらへ向けた。
 しかし、相変わらず、表情の変化が見受けられない――否、変わっているのかも知れないが、あまりにも微々たるものすぎて、分からなかった。
「つか、お前、自分の恋人じゃない女を抱く覚悟って、ちゃんとしてたのか? 馬鹿でもちょっと考えたら、分かるだろ? そんな都合のいい女が、この世の中にそうはいないことくらいさ?」
 散弾銃のごとく、立て続けに撃ち放たれる問い掛けの弾丸にだんまりを決めていたが、指先で灰燼と化していた煙草の灰が落ちた瞬間、現実から目を背けるかのように、瞳を閉じ、重たい口を開く。
「……許されることじゃないと思ってるし、彼女を愛してはいけないとは、分かってた」
 蚊の鳴くようなか細い声で、ぽつりと呟くと、先ほどまで煙草を手にしていた指先で、前髪をぐしゃりと巻き込みながら、握り拳を震わせる。
 会って喋るのは初めてなのにも関わらず、男がやけに平然としていられるのは、きっと遊里佳の“能力”のことを、あらかじめ、前から知っていたからだろう。
 それでも、普通なら少しくらいは動揺してもいいはずなのだが、この男が彼に対して、全く狼狽えないのは、恐らく天性のものだろう。いわゆる、冷静沈着だとか、ポーカーフェイスだとかいうやつだ。
「うん。それくらい誰でも分かるぜ。で、お前って確か、結婚を前提に付き合ってる恋人がいるんだよな? それなのに、何で好きでもない女抱いたんだよ? 自分が好かれていたことに浮かれたのか? それともマンネリ解消に都合がよかったからか?」
 その全てを否定することができないとでも言いたげに、前髪を握り締める拳を、さらに激しく震わせる。
 男が肘を立てている、粗末なテーブル代わりの箱の上になった缶が、小刻みに震えるほどに。
「湊城さん、だっけ? 俺たちを救ってくれたことには感謝してんぜ。けど、遊里佳をキズモノにした責任は、どうすんの?」
 キズモノ、責任。
 そんな重たい言葉が頭上に降りかかってきた重圧に耐えきれず、二本目の煙草を手に取り、平静を取り戻そうとした。
 けれど、彼にとって、その行動は時間稼ぎという名の逃げのように見え、思わず露骨にむっとしてしまう。
 ならば、とことん圧力をかけるまでと、男の瞳を鋭く睨み付けると、その痛いほどの熱視線に気づいたのか、取り出した煙草を箱にそっと戻す。
 そう、すぐにでも答えがほしいのだ。それが例え、誰が言わずとも、全員が分かりきった答えであっても。
 そう察し、その視線をはがして、言葉をひねり出す。
「――責任は、取れない」
 苦し紛れな声は、その拳と同様に震えていた。
 だが、動揺を悟られないようにしたいのか、なお、表情は変わらないままで、目尻や口角のひとつ動かない。
 ……案の定、分かりきった答えなので、声色だとか表情だとかの反応など、どうでもよかったが。
「そうだよな。恋人がいるもんな。じゃあ、遊里佳は? 同情と性欲でお前に弄ばれて、挙句、癒えない傷を、一生抱えて生きることになる遊里佳の想いはどうなる?」
 いちいち、彼の言葉が突き刺さるのか、物ともしていないような表情であれど、心には相当きているようで、何となく、その様子が窺える。

 不覚にも、それが楽しく思えた。ほんの少しではあるが、微かに持ち合わせている嗜虐心と加虐心が疼いたのだ。

「罪を償うことは、したい」
 ……その言葉を聞いた瞬間、堪えきれず、ふっと吹き出し、口元を緩めた。
 どうすれば、この男は泣いて謝るのだろう。
 そんな愚昧で矮小な考えを、こんな状況下であるにも関わらず、試してみたくなった。
「どうやって? 土下座すれば許されるとでも思ってるのか? そんなのは、ただの逃げだぞ。大体、浮気って奴は、もし相手を溺れさせちまったら、今関係のある奴を切って、幸せにしてやるくらいの覚悟がないとダメだって俺は思うんだけど、そこんとこは?」
 言葉に詰まっているのか、考えがまとまらないのか、沈黙を決め込む男――湊城に対し、とびっきりの笑みを浮かべる。
「つまり、お前が遊里佳にやったことは、中出ししてガキ孕ませて逃げたような、クソ野郎と一緒。簡単に言えば、ヤり捨て。お前もそういう目に遭いたい?」
 とどめに相応しい会心の一撃。
 これにはさすがに、湊城の心に痛く重く響いたようで、わずかに怯んだ声を漏らした。
「一夜限りでも、彼女を本気で愛した。その責任を俺は取らないといけない。だから、それで罪の償いができるなら……」
「へえ、そうかい」
 予想外の解答に驚いてしまい、普通の反応をしてしまった。
 もう少し、意地汚く食い下がってくると思っていたのだが、どうやら、思いのほか誠実ではあるらしい。
 気持ちの揺らぎを悟られないよう、いつもの調子を取り戻すと、不敵に笑みを浮かべる。
「よし。じゃあ、それでいいぜ。とことん復讐してやる。俺の名前は堂山 聖夜。よろしく頼むぜ、湊城さん?」

 そして。
 俺を本気で好きにさせて、身の焦がれるような、ねじ切れるような、遊里佳の抱えた想いの何倍も辛い、いっそ死んだ方がマシだと思えるような気持ちにさせてやる。
 喉の奥だけでそう呟くと、また意味深に口元を綻ばせた。



End 2015.5.23.Sat.




  
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