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□拘束の鎖
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***


 目が覚めたら、ひどい頭痛に苛まれていた。
 だが、身体だけは軽く、まるで羽のようだった。
 身に纏っている布は、いつもよりふかふかしていて柔らかいため、自分の家のものではないらしい。

 痛む頭を抱えながら、ゆっくりと上半身を起こす。
 半分ほどしか開いていない瞳は、目の前の大きな壁掛け鏡と、見慣れない派手で豪勢なシャンデリアを捕らえた。
 壁の柄や家具の一つをとっても、どれもこれも装飾華美で、まるでどこかの王宮のような内装だ。
 見慣れない光景に、自分の身体を抱いて身構える。
 寒い。自分の手の平が暖かいと思うほどに。
 ぞっとしながら、自身へと視線を落とす。下着ひとつすら纏っていないその身体に、小さく悲鳴を上げた。
 まさか、誘拐されて、監禁されている?
 いやまさか、そんなはずはない。三十路近い、色気も女らしさもない、こんな干からびた女を、よりにもよって攫うわけがあるか。
 考えていて、虚しさすら覚えながら、深呼吸を繰り返して冷静さを取り戻す。
 ある程度、動転していた気持ちが落ち着いたところで、さらに辺りを視察する。
 幸いにも、手足が拘束されていたり、身体が鎖で繋がれていたりということはなく、自由に動き回ることができた。
 ベッドシーツで裸体を隠しながら、素足で真っ赤な絨毯に足の指先をつけると、背後から声がした。

「ああ、目が覚めたんですね。おはようございます」
 その声は、耳馴染みのあるものだった。
 状況を把握できていない自身が馬鹿馬鹿しくなるほど、その声はいつものように朗らかで優しい。
 挨拶を返すこともできず、じっと彼の上から下を舐めるように見つめる。
 下半身には私服の暗い青色のジーパン。
 上半身は、首に巻かれたタオルと、ちょっとしたアクセサリー以外には何もなく、
普段、仕事を眈々とこなしている姿からは考えられないほど、引き締まった肉体は逞しく、精悍に見えた。
 暫し、その肉体美に見惚れてしまい、恍惚としていたが、彼が怪訝そうに首を傾いだのを見て、我に返った。
 それと同時に、驚きの連続で、忘れかけてしまっていた頭痛がじわじわと蘇ってくる。
 再び、痛む頭に手を添えながら、目の前にいるこの男に問うた。

「なんで、君とあたしがここにいるの?」
「覚えて、ないんですか? まあ、かなり酔ってましたしね」
「あたしが、酔ってた?」
「うーん……結構飲んでましたし、仕方ないのでしょうか」
 首に掛けていたタオルをベッドの傍らに、適当に投げ置くと、隣に腰を落とした。
 その仕草は、本当にいつも一緒に仕事をしているかのように自然で、やましさは一切感じられなかったし、それ以前に、彼を信じていたかった。

 だが、見たことのない彼の素肌を、これでもかというほど、まざまざと見せつけられると、少しの不安と恐怖が脳裏を掠める。

 彼は、仕事の同僚だ。
 正確に言えば、仕事では彼の方が先輩であるが、年齢的には(恐らく)自身のが上である。
 彼もそう思っているのか、自分にはそれなりの態度で接してくれるし、
自分を慕い、自分もまた、彼を信頼しているという、完全な上下関係ができていると思っていた。

 濡れた髪を何度も触りながら、次の言葉を言いあぐねて、困惑した表情をしている彼を余所に、自分はずっとそんなことばかりを考えていた。
 相変わらず、やましさはこれっぽっちも感じない。

「えーと、どこまで覚えていますか? 忘年会の二次会にご一緒したことくらいまでは覚えています?」
「忘年、会……?」
「職場の忘年会です。それすら、覚えていませんか?」
「……ごめん、覚えて、ない、みたい……」
 忘年会という単語が引き金となり、自分の中で、さらに事態がややこしくなる。
 だが、こんなにも頭が痛いのだから、きっと彼の言うこの忘年会で二日酔いになったのは間違いないだろう。
「単刀直入に言った方が早いんでしょうか……えっと、その忘年会の帰りに、酔ったあなたを介抱したのが、僕、だったんですけど」
「はあ……」
「自分の家は遠いし、ましてや、あなたの家の場所も知りませんし、だから……」
「……はあ」
 気の抜けた適当な相槌に、痺れを切らしたのか、はたまた、腹を立てたのか、シーツのドレスから剥き出しになった、素肌の自分の肩に大きな手が包まれ、そのままの勢いで押し倒された。ベッドのスプリングが、鈍く軋む音を立てる。
 なおのこと、今おかれている状況が理解できなくなってしまい、ただただ、目を丸くすることしかできなくなる。
 逸らせない視線の向こう、自分を上から見下ろす人の、見たことのないほど、綺麗で、だが、どこか野獣の獰猛さすら感じる瞳は、真っ直ぐにこちらを見据えている。
「本当に、本当に、覚えていないんですね?」
 もう何度目か分からない、その確認の言葉も、どこか吐息交じりで、久しぶりに、自分の女の部分を感じてしまったほど、動揺した。
「僕、嬉しかったんですよ。普段のあなたからは、微塵も感じない、普段の強いあなたが、僕にだけ、弱みを見せて下さったこと」
 酔った勢いで、どんな戯言をこの人に吐いたのだろうと戸惑う。
 だが、自分はそんなこと考えたこともなかった、はずだ。ゆえに、彼が適当な世迷言を創作しているのではとも思った。


 でも、普段の彼からも、今の熱っぽく語る彼からも、そのようには見えなかったのだ。
 まだ心のどこかで、彼を信じていたかっただけかも知れないが。

「だから、僕があなたの寂しさを埋めてあげますから、僕と付き合って下さいって……本当に、忘れてしまいましたか?」
「……酔っ払いの虚言を、本気にしてるの?」
「あなたが本気だったんじゃないですか」
「あたし、そんなことなんて、考えたことない……」
「じゃあ、思い出させてくれるまで、離しません」
 自身の無に等しいほど、平らな胸に顔を埋めた彼が、ふっと笑うと、その谷間に舌を這わせた。
 暇を持て余している両の手は、肩先から、開いた腋を滑り落ち、胸にかけてのラインを撫でる。
 瞬発的に身を捩らせ、そのもどかしい衝撃に耐えてみせたが、この痺れるような、甘ったるい感覚が、なぜだか懐かしく思えた。
 自分が覚えていなくても、身体が覚えているとでもいうのだろうか。

 いつしか、抵抗することすら忘れ、彼の為すがままに流されてしまえば、いつかこの蟠りの理由も分かるだろうと思ったのだ。

 別に思い出せたところで、何かあるわけではない。
 ただ、なんとなく、処女を喪失したときの記憶を辿ってみたくなった、それだけのこと。



「あなたが思い出せるように、またやり直しをしているの、思い出せますか?」
 濡れた重みで垂れ落ちてくる前髪を、気だるげに、かつ鬱陶しそうに後ろへかき上げ、覚えのない間にできていた赤い痣の上を、上からなぞるように、何度も爪を立てて這う。
 その爪跡が、鉛でできた鎖のように重い呪詛のように、彼と自分を縛り付けている。
 しばらくは消えないものになるのだろうか。そう思うと、抵抗することも無駄なように思えた。

 薄ら何かを思い出せている。
 だから、早く思い出して楽になりたい。
 そして、また忘れたい。


「もう一度、あなたの本心が聞きたい。ゆっくり待ちたかったんですけど、やっぱり、待ち切れないから――最後の手段」


 一瞬、呼吸ができなくなる。
 言葉を紡ぐための、あらゆる器官が封じられ、身も心も、全てが真っ白になった。




***



 距離を取り戻し、荒っぽい呼吸を繰り返しながら、混乱した頭の中を整理する。
 だんだん、忘れていたことが鮮明に蘇ってきて、途端に焦りと恥じらいが込み上がってきた。
 だが、なおも、自分が思い出す瞬間を、まだままだかと待ち侘びている瞳が、唐突に優しく思えた。
 吐き出せない言葉が、喉の奥で淀んだまま、堰き止められているせいで、いつまでも口籠っていると、彼は、目を細めて笑みを浮かべる。
「思い出せたんですね、よかった」
 よく見知っている、その笑顔が飛び込んできたのに安堵し、肩の力が抜けた。
 それと同時に、彼も焦燥していたのだと分かると、少しばかり吹き出しそうになる。
 彼を“異性”であることを、少しばかり意識してしまっていたが、自分の胸に手を当てた瞬間、はっとした。

「あたしなんて……」
 除けられてしまったシーツを手繰り寄せて、身体に被せて俯く。
 先ほどまで、彼の流れに委ねていた、この女らしい色気のない、この身体を見られるのが、苦しくなったのだ。
 自分の女性らしさが皆無であること、可愛げの欠片もない、ましてや、同じ職場の年上女を好いてくれるわけがない。
 彼もただ、介抱をした礼に、抱いただけにすぎないのだろう。

 金輪際、酒など飲むものかというような後悔よりも、処女をこんな形で喪失したこと、ほんの少しでも、彼へ好意を抱いた自分の愚かさが、憎い。
 こんなことで涙を流しそうになるなんて、本当に、本当に、悔しくてたまらない。

「……まだ、完全には思い出せていないようですね」
「何言ってるの。もう充分に思い出せたじゃない。これが、介抱のお礼ね。あたし、もう帰る」
 圧し掛かっている彼の身体を押し避けようとした手を、力強く強引に掴むと、小さく「まだ」と呟いて、引き止めた。
 いざ落ち着いてしまうと、つい先ほどまで、若干の恐怖すら覚えていた彼の瞳が、年相応の男の子が駄々を捏ねているように見えてしまい、思わず、吹き出しそうになる。
 無論、彼の可愛らしさにではない。
 諦め切れていない自分を、嘲笑っているのだ。

「まだ、肝心なことを思い出せていないじゃないですか。だから、もう少しだけ」
「もう、こんなことをするのに意味はないの。それとも、介抱の対価に見合わなかった?」
「違います」
「ああ、年増の処女なんてもらっても、嬉しくなかったわよね」
「……違います。何でそんなこと言うんですか。あなたと付き合っている僕が、惨めになるじゃないですか」
「何言ってるの。それも、あたしが酔っ払ってたときの戯言?」
「戯言なんかじゃありません。本気でした。だから、僕だって、本気で……」
「何それ。もうどっちが馬鹿か分からないじゃない」
「そういうものなんじゃないんですか? 恋は盲目って」
「そんなの分からないわよ。言ったでしょ、処女だって」
 勢いだけで言ってしまったが、後々になって、こんな子ども相手に何をムキになっているのだろうと思った。
 だが、思っていることとは反比例して、顔に出ている表情は、かなり喧嘩腰になっているようだ。
「――ああ、そうでしたね。じゃあ、僕が責任を持って教えます。あと、あなたも、いい大人なんですから、自分の言葉には、ちゃんと責任を持って下さいね。僕もちゃんと責任は取ります」
「責任って……」
「自分の言ったこと、したことには、責任と自信を持つように指導して下さったのは、あなたじゃないですか」
「いや、それとこれとは話が……だって、それ仕事上のことだし!」
「大人が言い訳なんてしていいんですか?」
 きょとんとした表情をして、とぼけて見せる。
 こういう場で、急に年下という立場を利用した態度を取られたことに、無性に腹が立つのを感じながら、ここは大人の対応を取るべきところだと、感情を押し殺した。
「……はぁ」
 その呆れの溜め息の意味を、彼は前向きにも肯定に受け取ったようで、堪えきれない喜びを、自分を抱き締めることで体現してきた。


 子どもっぽいあどけなさが残った童顔と、日頃の仕事熱心な態度とは裏腹に、彼の腹の中は、強引で獰猛かつ、狡猾な小悪魔が棲んでいる。
 そんな彼の魅力に、射抜かれてしまったのかも知れない。
 今まで、まったく何の感情も抱くことがなかったのに、たったの一晩で、いとも容易く。



「もう一度、抱き締めてもいいですか」

 抗う知恵も術も知らない。
 真剣になって、次に紡ぐ言葉を探す僅かな時間さえ、彼には耐え難いものだったようだ。

「ごめんなさい。待ち切れそうにもありません」

 よく見知った笑顔が、あまりにも蠱惑的で、しばらくは真っ直ぐ見つめられそうにもない。


 この機械の身体を持った男の子の、あまりにも純粋で無垢な、電気信号の笑顔が。





End 2014.12.30.Tue.


  

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