秋津島―akitsushima―
□壱の章『比古』
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阿夜は、はしゃいだ声を上げながら比古の行方を目で追っている麻名の黒髪を、愛しそうに優しく撫でた。
麻名はまぶしそうに阿夜の顔を見上げると、にっこりと白い歯を見せた。
まだ幼女のあどけなさが残っているものの、あと二、三年もしたら美しい少女になるに違いない。その頃にはきっとおてんばもおさまって、少しは女らしくなってくれることだろう。
そしていつか麻名が年頃になったら、髪を結い上げて花を飾ってやろう。それから阿夜が自分で染めた糸で布を織り、綺麗な晴れ着を仕立てて麻名に着せてやりたい。それがこの島の風習、女の子が成人するときに母親がしてやることなのだ。
麻名の母親として、阿夜はそれを立派に祝ってやりたいと思っていた。
「あたし、走って行って、みんなに首長たちが帰って来たって伝えてくる」
麻名はそう言うなり駆け出してしまった。
まるでゴム毬のようにぴょんぴょん跳ねながら、松林の中を駆けて行く後ろ姿が見える。
「まあまあ、あんなに慌てて」
阿夜はそれを見て思わず苦笑すると、港のほうへ向かって歩き出した。
「おかえりなさい、あなた」
阿夜は優しい声で言うと、夫でありこの敷島の首長である伊佐那にそっと近づいた。
伊佐那の日に焼けた逞しい体から潮の香りが漂ってくる。そのなつかしさに阿夜はにっこりとほほ笑んだ。
それから伊佐那と阿夜はしっかりと抱擁を交わした。そうやって航海の無事を喜び合うのだった。
比古はそんな両親の様子を、幸福な気持ちで眺めていた。
比古の父と母は本当に仲がよい。父と母が喧嘩しているところなど、島の誰ひとり一度も見たことがない。父も母もいつも互いを想い、つねに尊重しあっていた。
二人は比古にとって自慢の両親だった。
父の伊佐那岐毘古(いさなぎひこ)はとても強く勇敢で、首長として誰からも尊敬されている。母の阿夜は優しく美しいうえに賢くて公平なので、やはり島民すべてから信頼されている。それに二人とも、心から比古を愛してくれていた。
「父さん、根国(ねこく)はどうだったの?」
比古が尋ねると、伊佐那は大きな手で比古の頭を撫でながら、
「相変わらず賑やかで人がいっぱいいるところだよ。根国人ばかりでなく、いろいろな国の人たちがたくさんいる」
「すごいなあ、やっぱり大陸は違うんだね」
感心したように比古が言うと、
「それでも根国は国としては小さいほうなのだよ、比古」
「へえぇ、じゃあ大陸にはもっと大きな国がたくさんあるの?」
「そうだな、一番大きい国は那国(なこく)という。次は熙国(きこく)と、ずっと西のほうにある胡陵国(こりょうこく)かな。それらの大国に比べたら、根国はだいぶ小さな国だよ」
伊佐那の言葉に、比古は興奮して大きく息を吐く。伊佐那の腕になかばぶら下がるようにして取り付くと、顔を上げて父の顔を見つめた。
「ねえ、父さん。いつか俺も根国に連れて行って。ううん、根国だけじゃなく、俺は大陸にあるすべての国に行きたいよ」
瞳を輝かせてそういう比古の無邪気に、伊佐那はこたえず、ただ優しいほほえみを浮かべただけだった。