月光譚 ―gekkoutan―

□序章
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 「風が出てきたようでございます」

 風?ここで?
 何もかもすべての流れが止まったような、こんな場所で?
 いや。じっと息を潜め、耳を澄ませば、どこか遠いところで微かに風の鳴る音がする。
 ざわざわと音を立て、たしかに風は吹いていた。

 「大分暗くなってきましたね。いま、明かりを」
 また、静かな声。
 なぜだかとても懐かしい感じのする不思議な声。
 その声とともに、小さな鬼火のような明かりがひとつ目前にともる。頼りなげな青白い光が、ほんの少しだけ視界を明るくする。
 しかし相変わらず話し手の顔は見えない。ただ白い輪郭だけが、ぼんやりと映し出される。
 その様子がなんだかひどく現実離れして見えて、私は急に心細くなる。
 そして、
 「――」
 相手の名前を呼ぼうとした時、ふと私は思い当たる。
 私は、この人の名前を知らない。
 いったいこの人は誰?ここはどこ?そして……私は誰?

 ――ワタシハダレ?

 馬鹿みたいな話だが、私にはまったく思い出せなかった。
 自分の名前も、目の前の人が誰なのかも。自分がどこから来て、どうしてこんなところにいるのかも。何一つ思い出せない。
 私は誰?この人は誰?ここはどこ?
 私たちはどうしてこんなところにいるのだろう?いったいいつから?
 考えれば考えるほど分からなくなって、私はたまらなく不安になる。
 せめて目の前の人の顔を見たい。そう思って目を凝らすのだが、やはり白く細い輪郭以外には何も見えない。
 私の中で不安がどんどん大きくなっていく。
 それを察したかのように、突然かれの手が、私の手に触れた。
 「どうなさいました?」
 心配そうに聞いてくる。

 その瞬間。
 私は突然泣きたくなった。
 本当に突然、私は声を上げて泣きたくなった。
 喉元にこみあげてくる嗚咽を、私は必死にこらえる。
 何故かはわからない。けれど今、何かが私の心の中で弾けた。
 かれが私に触れた瞬間。目の前のこの人が、確かに今、この場所に存在しているのだと感じた瞬間。その時、私の中の知らない何かが目醒めたような気がした。
 そして、急に私は泣きたくなった。

 「どうかしましたか?」
 もう一度声が訊く。
 私は首を振った。つとめて軽くさりげなく、のつもりだった。果たしてその努力が功を奏したかは疑問だったが。
 かれもそれ以上は尋ねてこない。

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