黒子本、まとめ
□野獣と化者が夢を見た(前編)
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手の上なら尊敬のキス
額の上なら友情のキス
頬の上なら満足感のキス
唇の上なら愛情のキス
閉じた目の上なら憧憬のキス
掌の上なら懇願のキス
腕と首なら欲望のキス
さてそのほかは、みな狂気の沙汰
――フランツ・グリルパルツァー:『接吻』より
野獣と化者が夢をみた(前編)
荒北センパイとお付き合いが始まって、そして彼が卒業してちょっとだけ遠い大学へと進学して、何が変わったかと言えば、何もかも変わったと思うけど一番はこれだろうか。
「おやすみなさい、靖友さん」
ひとつめは、呼称が変わったこと。
「おう、オヤスミ。澪チャン」
真っ暗になったワンルーム。
薄暗い室内で、ひとつの布団の繭にふたりでくるまって、穏やかに笑って、ゆるりと目蓋を落とす。
ふたつめは、澪が荒北の元へ『お泊まり』するようになったこと。
巷では野獣と有名な荒北だが、いざお付き合いが始まってみるとこれが意外とまめで世話焼きで――何より、澪を大事にしてくれている。
くっつきたがりだったりスキンシップ過多なところはあるけれど、それもやっぱりどうぶつが懐いているような微笑ましさが先行してしまい危機感を感じたことはない。
それに、お互いに(体力的な意味でも)くそ忙しいのが手伝っているのか、それとも他の理由があるのか、荒北はあまり澪にがっつこうとしない。たまに『そういうこと』になっても、やっぱり優しくて、気遣ってくれているのが文字通り肌身で分かる。
もし、荒北がえらい我慢してくれているのだとしたら、結構申し訳ないが、どこか安堵しているのも本当だ。なんせ経験値が底辺を這っているので。
しかし、当初は胡散臭ぇだの得体が知れねぇだの山猿だのとさんざっぱら警戒されていたのに、人生とは分からないものである。
今日だって久々に合致したお休みを利用してお泊まりに行って、二人で部屋でのんびりして、ご飯を食べて、お風呂に入って(もちろん別々に)、今に至る。
澪はそっと薄目を開けて、至近距離にある荒北の顔をじっと見つめた。
「……」
どうやら熟睡しているらしい荒北の瞳は完全に閉じられており、長い睫毛が頬に僅か、翳りを添えている。
綺麗なひとだなぁ、と素直に思う。競技中の彼は確かに目の前の獲物に食らいつく獰猛な狼で、引き絞られた嚆矢のように疾走する姿は猟犬めいて苛烈だ。
――靖友さんの獣スイッチは、レース中にしか適用されないのかも
ふとそんなことを考えて、ちょっぴり沸いた悪戯心。
澪は頭をもたげて、ほんの少し、近付けて。
無防備に眠る荒北の鼻先に、ちょこんと小羽のようなくちづけを、ひとつ。
「――靖友さんに、よい夢がおとないますように」
そんなおまじないにもならない稚拙な願いを小さく口にして、今度こそ澪はごそごそと布団に潜り込んで眠りに落ちた。
「……イヤ、もう、俺がなけなしの理性総動員してんだから、頼むからさァ……そういう……!!」
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