ファントムより愛をこめて
(抜粋)



「仕事、疲れたのか?」

 よく使い込まれ、年季の入った鍋を取り出して、紫苑は夕食の準備を始めながら話しかける。

「いいや。仕事じゃなく、帰ってきてからのほうが疲れたね。それはそれは大きな赤ん坊がいたもので」
「赤ん坊って……。それ、ぼくのことか」
「他に誰がいるんだよ」

ネズミは目を開き、両手を首の後ろで組むと、そのまま背もたれに身体を預けた。

「一人でまともに立てなくなるほど、何に熱中してたのか知らないけど。ディナーの準備まで忘れてもらっちゃあ、困る」
「それは、本当に謝る。このとおりだ。最高に急いで作るから」
「当然。食後のデザートまでつけてもらう」
「豪勢だな。そんな材料、あったっけ」
「さぁ。歌劇の幕間には、とびっきり濃厚で上質なカカオを使った、ガトー・オペラが定番だ」

オペラ。
その名に心惹かれる。
ネズミが言ったそのケーキは、しっとりとチョコレートを含んだ、ほろ苦く上品な味わいの菓子。

「えっ、あれは、オペラの幕間に食べるものなのか」
「元々はそうさ。だからその名がつけられた」
「へぇ。きみは……いや。やっぱり、いい」

 何も考えずにただ疑問を口にしようとして、ふと思いとどまる。ネズミの怪訝そうな顔。

「なんだよ」

 直接言葉には出さないけれど、その目が「言え」と言っている。その気迫に負けて続けた。

「いや、どこで食べたのかと、思って。……言っておくけど、きみや西ブロックを蔑むつもりはない。これは純粋な疑問だ」
「そういう言い方が、蔑んでるって言うんだ」
「違う! そんなつもりなんて欠片もない。断言する。信じてくれ。ぼくはただ、きみについて知りたいだけだ。これまで、どこで何をして生きてきたのか、そんな演劇に関する知識はどこで手に入れたのか。きみのことが聞きたい。話してほしい。共有したいんだ」
「紫苑。それは共有なんかじゃない。余計な詮索って言うんだ。覚えとけ」

ネズミが語気を強め、気圧されて口を噤んでしまう。やはり、聞いたりするのではなかった。
紫苑が俯くと、ネズミは興味を失ったかのように、ふらりとソファから立ち上がった。本棚の方に向かって数歩歩き、そしてぼそりと零す。

「いるんだよ。世の中には、しがない役者に何もかも与えたくなる、『好き者』がな」
「それ、どういう意味だ?」

 ネズミは答えない。肩越しに振り返ったその唇が、滑らかに言葉を紡ぐ。

「『おまえに感謝するよ。これほどの贈り物を受け取った者は皇帝の中にもいないだろう!』
これは?」
「……『オペラ座の怪人』の一節だと思うけど」
「ご名答」

 身をかがめ、何かを手に取ってくるりとこちらを向いたネズミ。その手の中には、まさにその一冊があった。

「さっきまであんたが読んでいた本だよ」
 ああ。知っている。
 白い仮面と、薔薇をあしらったその装丁に惹きつけられる。そして表紙だけではなく、その中身にも。

「時が経つのも忘れ、おれが帰ってきたのにも気づかないなんて、よほど陛下はこの物語がお気に召したとみえる」

チチチッ。

ネズミの言葉を肯定するように、小ネズミたちが本棚の影から姿を見せ、鳴いた。

「ひょっとして、今日も作業が中断したとき、教えてくれていたんだろうか」
「教えていたのかも。ああ、それとも可哀相に。あまりに小さき者たちの声は、尊い陛下の耳に入らなかっただけなのかも」

 芝居がかった声音でうそぶき、ネズミは、はたりと真剣な目つきになる。

「登場人物と同化して作品に浸るのは読書の醍醐味のひとつだけど、あんたにはお勧めできないな」
「どうしてだ? きみだって、物語の人物に同化して、演じているんだろ」
「あくまでもおれは、演じているだけだ。そいつの気持ちを汲んで表現することはあっても、そいつ自身になりたいわけじゃない。わかるか?」

ネズミは時折、とても厳しいことや、難しいことを言う。
ただ、それは的確な真実を指摘していることがほとんどで、思わず首を縦に振ってしまう。納得させられる。
だから、こちらから耳を塞ぐような真似はしたくない。
理解したい。
ほんの少しでも、それがたとえ氷山の一角であったとしても、きみの心理に近づけるのなら、ぼくは何だって努力するだろう。

「うん。なんとなく。きみがある程度のところで、演じる役との間に、一線を引いていることがわかった」
「それで結構。あんた、一度やり始めたら、とことんまでのめり込むタイプだろう」
「それは……、」

そうなのだろうか。
ちょうど昼間の小ネズミたちのように、紫苑は小首を傾げる。
一方、ネズミは皮肉めいた笑みを浮かべ、声を低く潜めて囁いた。

「気をつけたほうがいい。時々、いるんだよ。物語にのめり込んで、そのまま戻ってこられなくなるやつが、な」




―続きは本編にて。


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