Seven scents
 Extra story 5.5
ー風の薫りー




「楽屋」と呼ぶには些か手狭な、恐らく物置とでも呼んだほうがふさわしいその小部屋には、今日も艶やかな薔薇の香りが溢れていた。
ひときわ大きく、目を惹く深紅の薔薇の花束がひとつ。とある演者の椅子代わりに使われている木箱の上で、異様な存在感を放っている。
そこに、盛大な拍手を背に聞きながら、少女の装いをした一人の少年が、颯爽と舞台を降りてきた。
白を基調とした裾の広がるロングドレスは、少年の少年らしさを隠すように、つまり手首、足首、喉といった特徴の出やすいパーツを、極自然に包んでしまっている。ひときわ目を惹くのは髪に飾られた同じく白いクチナシの花の髪飾り。その下から、ひとつに結ばれたウイッグが左肩にゆるりと流されている。
少年が楽屋の入り口に近付くと、すかさず支配人が駆け寄り、拍手を送った。

「さすがだ、イヴ! まったく、おまえの歌は涙なしには聞けないな! これでしばらくはまた、満員御礼ってわけだ」
「……そりゃ、どうも」

感極まれり、といった様子の支配人とは裏腹に、イヴと呼ばれた人物、ネズミは、いっそ無愛想と言っても過言ではない口調で応えた。
たった今まで、観客に熱の籠もった視線を送り、狂おしいほどの恋情を歌い上げていたというのに、その落差が激しすぎるのだ。
ここ数週間、舞台が終わった途端に不機嫌になる。その原因が、毎回の上演の際に届けられるこの花束であろうことは、その場に居合わせた誰もが、程度の差はあれども感じ取っていた。
その証拠に、ネズミは自分の定位置である木箱の上に置かれた豪奢な花束を見るや否や、眉間に皺を寄せ、それからつかつかと歩み寄ると、流れるような動作で、それでいて無造作にその花束を、床に置いた。
果たして確保された定位置にどかりと腰掛けると、鏡を見ながら器用に髪飾りとウイッグを外し、即座に舞台の化粧を落とし始める。
そんな様子に、同じく舞台に上がっていた赤毛の青年、ロゼが話しかけた。

「おい、イヴ。もっと喜んだらどうなんだ。いつもの素晴らしい贈り物だぜ。まったく、こんなすげぇ花束、こんな所でどうやって用意してるんだろうなぁ」
「要らない。喜ぶ理由もないね」

ひび割れ、くすんだ鏡から目線を動かそうともせずに、ネズミはぴしゃりと言い捨てた。

「はァ? おまえ、本気で言ってるのか。毒針なんて仕込まれてやしないぞ。それにこいつの贈り主は、ずいぶんとおまえに『お熱』じゃないか」
「…どんな理由だろうと、おれには必要のないものだ。なんならロゼ、今日は、あんたが持って帰るといい」
「そうまでして、持って帰らない理由はあるの? イヴ」

横から口を挟んだのは長い髪をもつ妙齢の女性。ドロシーと呼ばれるその女性は、前回の花束を最終的に持ち帰ることになった人物だ。
西ブロックの数少ない娯楽のひとつである舞台。見に来る者のうち、金銭的な余裕がある者など皆無に等しい。だが中には、貯め込んだ金を贔屓の演者への贈り物に変える、「好き者」がいる。
食料品、嗜好品の酒、煙草類や飲み物、アクセサリー、香水など、種類は多岐に渡るが、その出どころは定かではない。市場か、盗んだものか、あるいは闇のルートを通って来たものか。食品や飲料の類であっても演者たちの反応は慎重そのもので、少しでも危険と判断されればそのほとんどが再び市場へと持ち込まれ、売られる。そこで得た金もまた、演者の収入源のひとつというわけだ。

「あなたに向かってこういう話も何だけど、なかなかの値段で売れる代物じゃない? うちのチビたちに3日余分に食わせるだけの金にはなったわ。貰った物は各自の取り分。あなたが持って帰れば、丸く収まると思うんだけど?」
「ドロシー、悪いがおれは、詮索されるのは好きじゃない」
「あら、心外ね。あたしは善意で言ってあげてるのに」
「まぁ、二人とも、そのくらいにしないか。イヴ、アンコールだ、すぐ出てくれ」

楽屋の入り口から支配人が顔を覗かせていた。
ヒートアップしそうな二人を前に、内心冷や汗を流していたロゼはほっと胸を撫で下ろし、ドロシーとネズミはぴたりと動きを止めて、カイゼル髭をはじく男を見つめた。

「あら残念。うちのスターはもう帰る気満々のようだけ、ど」
「お望みとあらば、今すぐに」

何でもないかのように立ち上がったネズミに、ドロシーは驚く。衣装こそまだ身に纏っているものの、髪の飾りや化粧を綺麗に落としてしまったその顔つきは役者のイヴではなく、少年そのもの。

「ちょっと、イヴ。どうするのよ。あなた、もう化粧が」

その言葉に、ネズミは振り向きざまにくすりと笑う。

「化粧なんて、まやかしさ。客が求めているのはおれの衣装や顔じゃなく、歌だからな。顔なんて見えなくたって、問題はない」

あっけにとられたドロシーを残し、楽屋を出て行った先で、「明かりを落としてくれ」と支配人に告げる声だけが聞こえた。まもなく、指示が伝わり、照明が消されたのだろう。客のどよめきと、それらを瞬時に打ち消す凛とした歌声が響き、客の意識のすべては暗闇で見えない声の主に注がれた。思いがけない趣向に驚きを隠せず、そしてただひたすら、歌声に聞き惚れている気配がひしと伝わってくる。

「…ほんと、よくやるわ」

腕を組み、嘆息したドロシーの表情は柔らかい。そして所在なく視線を巡らせている青年に向かって、微笑んだ。

「結局のところ、みんなあの子の虜なの。あたしも、あなたもね。ロゼ」



 ◆



時は少し前に遡る。
季節が、本格的な冬へと移り変わろうとしていたころ。
劇場に訪れたその客は、最初から異質な存在だった。

「イヴ! 待ってくれ! きみと話がしたいんだ、イヴ!」

客席の一角から唐突に発せられた声。そして周囲のどよめき。
いつものように割れんばかりの喝采を浴び、一礼して舞台を去ろうとしていたネズミは、顔を上げ、目に飛び込んできた光景に思わず瞠目し、僅かに一歩後退る。
下手の隅の座席を立ち、勢いのままに舞台へ近づこうとして、周りの客達に取り押さえられた男がいた。
それは頭髪の白い、男だった。
まさか。
一瞬、脳裏をよぎった少年の姿。

『きみの、舞台が見たいな』

確か、犬洗いの仕事を始める前。その少年は、紫苑はそう言っていた。つい先日のことだ。
その言葉はよく覚えているし、ことあるごとに、紫苑が仕事について聞きたがっていることもわかっていた。
だからと言って、劇場に近づける気は毛頭なかった。けれど。
あの好奇心の強いお坊ちゃんのことだ。何をしでかすかなんて、到底予測できない。
上等ではない照明でも、舞台が明るい分、客席は暗くなる。客たちの表情は見えても、よほど舞台に近い席でなければ、細かな部分までは見えない。

「イヴ、乱闘だ。面倒だから一旦下がってこい!」

舞台袖から支配人が小声で叫んでいる。
支配人の言うとおりだ。面倒事には、巻き込まれないに限る。
だがもしも、もしもあの男が、紫苑なのだとしたら…。
便乗した客たちが男の席に集まり始め、ますますその姿は見えない。
目をこらし、少しでも近づけば何か見えるのではないかと、思わず足を前に踏み出していた。





【続く】
NO.6レビュー


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