図書館できみと 2nd seasonサンプル


■大学生パロディ
 紫苑2回生、トーリ1回生。



   ◆



 薄闇が空を覆い始めていた。
 学園内の研究室棟にもぽつりぽつりと灯りがともされ始める。
 その中の一室で、それぞれのPC端末の前でデータ整理に追われる二人の姿があった。
「紫苑さん、そろそろ灯りつけましょうか」
「うん、ありがとう」
 トーリは席を立ち、壁のスイッチを操作する。ぱっと浮かび上がった室内に光が反射してとても眩しい。
 二人が学ぶのは生態学部だった。
 動物生態学、群集生態学、環境生態学、遺伝生態学など様々な分野があるが、今回のテーマは突然変異に関わる遺伝子で、整理しているデータは日々の実験の観察経過や解析の結果だ。膨大に記録されたデータの中から、レポート発表に向けて必要な部分だけを抜き出し、まとめて蓄積していく。
「トーリ、そっちはどんな感じ?」
 紫苑も画面から目を離し、うーんと伸びをしている。
「ざっと半分です」
「ぼくもそんなところだ。もうひと息か」
「そうですね」
 椅子に戻り、残りの作業に取りかかりながらトーリは会話を再開させた。
「さっきの続きですけど、紫苑さんと初めて会ったのはそのときなんですよ」
「へえ、そっか。もう九ヶ月も経ってるんだ。よく覚えてたね」
 入学してから始まった前期は、各分野の基礎を学ぶのが中心だった。
 後期になってから二回生と共同研究ができると聞き、迷わず彼と同じテーマを希望した。そして数週間の間、研究活動を共にして今に至る。
「ファーストインプレッションってやつです。強く印象に残って離れない。紫苑さんはそんな体験ありませんか?」
 問いかけると、暫し紫苑は沈黙して、それから答えた。
「……うん、あるよ」
「聞いてもいいですか?」
「ええと、探し物をしていて……あれこれあったけど最終的に見つけ出してくれた。それから、」
「それから?」
「そうだな……あの眸は忘れようもない。何度見ても惹かれてやまないんだ。どこか掴めないようなところがあるけど、それが何なのか知りたい。知って共有したい。余裕ぶっているけど、意外と子どもじみたところもある。とても強くて、しなやかで……。あ、それから歌とか古典の芝居がすごくうまい」
 初めはほんの好奇心だった。
 それが誰かまでは聞くつもりはなかったのに、声の調子や愛おしむような表情からわかってしまった。その相手に対して、この人は強い思いを抱いていると。
「……それは、沙布さんですか?」
「沙布? ううん、違うよ。沙布とは幼児検診と、その後のスクールで一緒だったんだ。彼女、負けん気が強くってさ。随分クラスメイトと喧嘩してたっけ。懐かしいな」
「へえ。そんな小さな頃からの幼なじみだったんですね」
 くすくすと笑う姿を見ていられなくて、返事をしながらそっと作業に戻る。余計なことを聞くんじゃなかったと後悔しながら。

 そこから、自分でもわかるほどに作業効率が落ちてしまった。ようやく担当分の入力を終え、紙媒体の資料や書籍を整えていると横から声をかけられた。
「もしかして、終わった?」
「こちらは終了です。紫苑さんは?」
 明るい声を出そうと努めて返答すると、隣の人は画面から目を離さないままで苦笑した。
「うーん……もうちょっと……」
「ぼくは大丈夫ですよ。紫苑さんこそ、バスの時間は大丈夫ですか」
「ああ、もうそんな時間か。あっという間だな。日が暮れるのも早くなったよね」
「そうですね。夜は冷えますし、そろそろ雪が降るかもしれませんね」
「雪か。今年もまた冬が巡ってくるんだ」
 ふふ、と紫苑が笑った。その微笑みがとても柔らかで、何かを慈しむようで。
「紫苑さんは冬が好きなんですか?」
「ん? そうだな、好きだよ」
 意味合いは全く違うのに、そんな表情のまま「好き」だなんて呟いて。その言葉を聞くだけで心臓がドクリと強く脈打ったような気がして息苦しくなった。
この反応が何なのかわからない。
「んー……よし終わった! じゃあ片付けようかトーリ」
「えっ。あ、お疲れさまでした」
「そっちの資料取ってくれる?」
 机の上に山積みの書籍や研究紀要を紫苑が指さす。
「はい。これですね」
「ありがとう」
 ざっと渡したがそれなりの重さだ。それらを抱えたまま椅子に上ろうとするのを見て、高い棚に戻すつもりなのだとやっと気がついた。
「紫苑さん、それならぼくが」
「このくらい大丈夫だって。よっ、と」
 ぐらつきながらもうまく上れた、ように見えたのだが。
「うわ!」
 やはり書籍が重すぎたのか椅子が不安定だったのか、紫苑がバランスを崩す。
 危ないと思ったときにはもう動いていた。床に落ちようとする身体を抱き留める。
 穏やかで優しげに見えたってやはり彼も男性だ。衝撃と重さに耐えきれずにそのまま派手に後方の机にぶつかって転んだ。机上の他の資料もバサバサと床に散らばる。
「だい、じょうぶですか……?」
 とにかく彼を守らなくては。ただそれだけを考えて手を伸ばしたつもりだった。しかし絞り出した声は情けないくらいに震えた。自分の心臓の音だけが激しくなる。
「うん、平気だ」
 腕の中から紫苑が答え、トーリは詰めていた息を吐き出す。
「よかった……」
 本当によかった。
 咄嗟に受け止めるだなんて反射神経が自分にも備わっていたのかと驚いたけれど、もしあのまま机に後頭部でも打ちつけていたらと思うとゾクリと背筋が凍るようだ。
「本当に怪我はないですか? ……ってて、」
 上半身を起こそうとし、トーリは背中と右半身に鈍い痛みを感じた。机にぶつかったときに痛めたらしい。
 身を起こそうとした紫苑の表情が一気に険しくなり、それから眸に不安の色を滲ませた。
「きみこそ怪我したんじゃないのか」
「いえ、たいしたことないです」
 心配させてはいけないとすぐに立ち上がってみせ、手を伸べる。
「紫苑さん、立てますか?」
 頷きながらそっと差し出された手を掴んで引っ張り上げた。それから手を離し、軽く裾を払う。室内を見回すと床は散らばった書籍や紙の資料で散々な状況になっていた。
「あー。ごちゃ混ぜになっちゃいましたね。でも怪我がなくて本当によかっ……」
「トーリ!」
「え?」
 言葉を遮るように、いつになくうわずった声で紫苑が呟く。
「血が」
「え、どこです?」
「ちょっと見せて!」
 強い力で右腕を取られてしまった。手の甲を上に向けられる。擦過傷ができて僅かに血が滲んでいた。
「やっぱり」
「机の縁か何かで切れたんでしょう。このくらいすぐ治りますよ」
「トーリ、手当てしないと」
「手当て? 大げさですって。大丈夫ですよ」
 手を振りほどくこともできずに、はは、と笑ってみせる。
しかし紫苑は譲らなかった。
 こういうところが、彼の頑固なところだと知っている。それが彼らしさであるということも、こうなったらこちらが折れるしかないということも。
 そしてそれを悪くないと思ってしまう自分がいることも、残念ながらよく知っている。
「……じゃあ、お願いします」
 観念して椅子に腰かけ、机の上に手を置く。
 紫苑は頷くと、パタパタと自分の鞄に駆け寄り、小型の救急セットを取り出して戻ってきた。さっきの衝撃で倒れていた椅子を起こして隣に座る。
 さっと消毒を済ませ、ガーゼを当てて。包帯を取り出したときはさすがに大げさすぎると辞退しようとしたが、あれよあれよという間に巻かれてしまった。
「すごい。こういうこと、慣れているんですね」
 包帯はきつくも緩くもない。手を動かしてみるがほどける様子もない。ただただ感心していると、紫苑は俯いてしまった。
「紫苑さん?」
「……めん」
 ようやく聞き取れるかどうかの声で、ぽつりと呟く。
「ごめん、トーリ。ぼくのせいで」
 膝の上に置かれた色白の拳がぎゅっと強く握りしめられた。
「あなたのせいじゃないですよ。ぼくは大丈夫ですから、顔上げてください」
 ああ、そんなに力をこめたら、ますます白くなってしまうのに。そう思ったとき、俯いた頬にそっと手を伸ばしていた。
 触れるかどうかというところで驚いたように一度だけびくんと彼の肩が揺れ、慌てて手を離す。
「あ……っ、すみません突然触れたりして……」
「トーリ……」
 紫苑がこちらを見上げた。その眸が涙に濡れているように見えてぎょっとする。何か触れはいけない物に触れてしまったような罪悪感に駆られた。
 そんな表情をさせたかったわけじゃない。彼が笑ってくれるようなことをしたいのに。
「紫苑さん……あの」



……続きは本編にて!


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