NO.6

□ひとり
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ひとり





風が強く吹いた。

昼を過ぎ、まだ日は高いはずだというのに、まるで夕方のように薄暗い。
市場の雑踏を外れ、路地に入ったネズミはちらと空を仰いだ。
建物の間に見える空は灰色の雲に覆われている。雲の流れは速い。
心なしか生暖かい風は時おり強さを見せ、首から肩に巻き付けた超繊維布の裾がばたばたと音を立てる。
風が頬をなぶり、過ぎていった。

ネズミは間もなく劇場の裏口へとたどり着く。
壁と同じく赤茶けた煉瓦づくりの階段が三段、そして錆びた手すり。
割れて崩れそうな煉瓦の部分を避け、階段を上がったネズミがドアノブに手をかけたところで、不意に超繊維布の中から白い小ネズミが飛び出した。
腕の上に立ち、短く鳴き声をあげる。

「どうした?」

葡萄色の目がじっと主人を見上げ、言葉の代わりに絹糸のような髭がひくひくと動いた。まるでドアを開けるのは止めておけと言わんばかりに、腕の上から動かない。
腕の上に立ちはだかる小ネズミを見つめながら、ネズミは僅かに表情を緩めた。そして初めて、今までいかに自分が険しい顔をしていたかに気づく。

「…わかってるさ、じきに嵐になる。それでも」

ドアノブを回そうと腕にこめられた力に気づき、小ネズミが素早く移動した。肩口まで駆け上がると、再び超繊維布の中に身を隠す。

「食っていかなきゃならない。そうだろう?」

自嘲するように呟き、そして灯りのない裏口のドアをくぐり終えたときには、既に「イヴ」の表情に変わっている。
薄暗い廊下を楽屋に向けて歩くと、楽屋の前で支配人が待っていた。白いシャツに黒いズボン。糊の利いたシャツが薄暗がりの中に浮かび上がる。

「やあイヴ。そろそろ来るんじゃないかと思って鍵を開けておいたんだ」
「仕事に真面目な役者を雇って正解だったろう?」
「まあね。そうは言っても、真面目じゃない新米役者がここでどうやって生きていけるのか、教えてもらいたいものだね」

支配人はにこりと笑みを浮かべるが、目の奥は笑ってはいない。
新しく雇ったばかりの少年が果たしてどの程度使えるものか、じっくり見定めようとしている。

「客の入りも上々だ。今日もひとつ頼んだぞ」
「それはそれは。こんな嵐の日に物好きなことで」
「はっは。物好きな客をおまえが集めてるんじゃないか」

支配人は笑って踵を返す。出番までに準備を整えておくように言い置いて。
楽屋の戸が閉められ、ネズミは静まりかえった部屋にひとり残された。
窓ガラスが音を立てて揺れ、外の風の強さを知らせる。

ネズミは目を閉じた。
そうだ、あの日もこんな日だった。もっと、全身を絡め取ってしまうような、身のすくむような風。降りしきる雨の中を駆けたあの日。

しおん、と音もなく唇が動く。肩口の傷跡にそっと触れた。

そして雨粒が窓を叩き始める。






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