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□満ちる
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満ちる


 おれはその数字が嫌いだ。

 「紫苑、問題だ。」
 「え?」
 「十という数字の意味を答えろ。」

 風も吹かない地下の部屋。そこに置かれたこの部屋唯一の光源がゆらりと揺れる。それはどちらかの吐息でか、それとも地上から潜り込んできた、地下の風か。炎のゆらめきを正確に映す白髪を眺めながら、おれはベッドでくつろいでいた。

 「なんだ?なぞなぞか?」
 「なんだと思う?」

 紫苑は白湯を注いだ二つのカップを運びながら、どこかはにかむようにおれのもとに駆け寄ってくる。

 「そうだな。あ、百の一割。」

 とか?と首を傾げながらベッドの下に寛いで腰を下ろし、シーツの上に枕を敷いて、腕置きにする。こちらから見ると、頭と腕だけベッドから生えているようで滑稽だ。

 「この理学的バカ。頭でっかちなエリートはこれだから。」
 「だって、数字の意味だろ?しかも十。むずかしいな。もっと古典的?」
 「まあ、どちらかといえば文学的だね。」
 「十か、十な。なんだろ。五プラス五。五の二倍。二と五で割れるもの。」
 「そんなに悩むことか?」
 「百のほうが馴染みがいいからな。十は微妙な数値に思えてしまう。」
 「なんで百ならわかるんだ。テストを百点しか採ったことがないからか?それとも、百から先は憶えてないのか?覚えない主義か?」
 「いや、正義の味方が言ってたんだ。元気百倍、て。」
 「それ、なにパンマンだよ。」
 「そんな名前の不動産屋があって、子供の頃コラボしてるのかと勘違いしてた時期があった。」

 懐かしいな、と笑顔で話題を振られるが、おれが知るはずないだろ。なにをさらりとナチュラルにあんたの思い出におれを登場させている。捏造も甚だしい。

 「話が脱線してる。」

 おれが軌道修正すれば、紫苑はああそうだったと話題にかえる。

 「まあ十も百も、この場合そう変わらないのかもな。」
 「一桁も違うのにか?」
 「数字っていうのは実はあんたら学者が思ってるよりも幻想的で、神秘的なものだぜ。百も、十も、一に0を足すのが一回か二回かの差だ。些末きわまりない。」
 「なんのことだ?一に足す?」
 「数秘学をご存知かな陛下?」

 紫苑はカップの温かみを逃がさないようにか、両手で包んで口につける。

 「詳しくは知らない。ただ、ピュタゴラスが今の数字、数式体系のシステムを論じるために用いたものだ、ということくらいだ。」
 「そう、それでいいよ。だってあんたは、角形の一番細かい数字を知ってるだろ。完結の?」
 「九?」
 「そう。完結の九。そして最後の角形は、完全の?」
 「十。円形のことだよな。ボール。十角形、十面体は球体を指す。でも、それはどちらかというと数学的じゃ。」
 「そうだね。あんたは完全の十が円であるまでしか知識にさせては貰えなかった。けど、じゃあ知ってるか?10は、1+0。すなわち絶対の?」
 「一。戻るんだ。完全の十は、めぐりめぐって絶対の一に。なるほど。数秘学とは言い得て妙だと思ってたけど、それを知ると納得。神秘なものだ。あ、じゃあこれが答えか?十は一。」
 「これは前置きさ。ヒント、とも言うな。」

 おれも白湯に口を付ける。水は甘い。だが温かい水はどちらかというと熱の塊。水でなく、熱い液体。香りとか味とか、そういう感性よりも先に、熱いという感度が際立つ。

 「一と十?十と一?最初と最後、始まりと終わり。一で十を理解する。哲学的だ。そういえばきみが前にピュタゴラスの名言を言っていたな。今ので思い出した。数は世界万物の根源であり、えっと。」
 「数は世界万物の根源であり、数字一つ一つには、それぞれの意味がある。」
 「そうそれだ。数字にするのが嫌いだという割に、数字一つ一つなんて台詞、きみにしては珍しいと思ったから印象的だった。哲学としてなら、きみも数字に興味を。」
 「もういいわかった。じゅうぶん、だよ。」
 ピシャリと紫苑の言葉を遮ったからか、肩をすくめて「悪い」と小さく謝す。
 「なにが?」
 「いやだから、また脱線してすまない。一つの事柄から逸れてしまうのはぼくの悪い癖だ。反省する。」
 「殊勝な心がけで嬉しいけど、おれは正解を口にしただけだ。」
 「え?正解?」
 「言ったろ、じゅうぶん、だと。」
 「じゅうぶん?怒ったんじゃなくて?」
 「じゅうぶんは、十分。十はこの地を充満させる、という黙示録であるように満たされていることの意味だ。ほかには隙間がないほど満ち満ちている。なんて、皮肉だな。もう十分だ、とか、とんだ。」
 「それ、素敵だネズミ。」

 嫌味でしかない、と続けたかったおれの語尾がフェードアウト。こんな尻すぼみな会話をしたのは生まれてこの方、初めてだ。非常に哀しくなってきた、どうしよう、泣きそうだ。て、似たような歌詞を聴いたな。すごく美味しそうな名前の歌手だった気がする。

 「とっても素敵だ。じゅうぶん、十分。」
 「連呼するとさらに嫌味度が増すね。」
 「いいな。いいよ。なあ、ネズミ。」

 紫苑はダラリとした凭れる姿勢から座り直し、中腰でおれに詰め寄ってくる。近い。

 「きみと居られるだけで、十分だ。」

 笑顔が、咲くように溢れる。

 「言うと思ってたよ。あんたらしい。」
 「そうか?バレバレだな、へへ。じゃあ、きみの隣にいられるだけで十分だ。」
 「あんまり変わってないよ、それじゃ。」

 近場の本の山を漁る。いまは物語より詩の気分だ。エッセの詩集がこのへんにこの間、埋まってたような。

 「会話が出来るだけで十分だ。笑ってくれるだけで十分だ。同じ白湯を分け合えるだけで十分だ。」
 「他には?」

 おれは詩集を見つけきれずに白湯を片手にベッドから立ち上がり、先週ほど前に紫苑が片付けた本棚に向かう。

 「いっしょに眠れるだけで十分だ。毎日会えるだけで十分だ。息をしてるだけで十分だ。生きてるだけで十分だ。」

 どんどん水準が薄くなってきた。十分の価値が低くなってる。

 「少しの食事で十分だ。仕事させてもらえるだけで十分だ。寒さを凌げるだけで十分だ。」

 生活にまで入り込んできたな。

 「十分だ。十分だから。十分すぎる。」

 ラストスパートは十分の三段活用。そんな使い方はしない。
 息を吸う、肺に空気の貯まる、すがしい音が耳に響く。吐き出した吐息は、吸い込んだ半分にも満たない量。吐き出す時間さえ惜しいと言わんばかりの、性急さを孕んでいた。

 「もう十分、幸せだネズミ。」

 背に、この部屋唯一の光源を受けながら、おれは暗がりの中で詩集を探す。

 「そんな使い方はしない。」

 少しぬるくなった白湯を飲む。甘味が、増した気がした。

 「なんだ、なにか言ったかネズミ?」
 「ああ、そうだよ。」

 おれはそんな使い方しない。素敵だなんて、思えなかった。
 満ち足りることなどない。腹も、心も、何も満たされない。でもそれでいいと思っていた。満たされれば満ち足りるほど、人は堕落する。向上しなくなるし、藻掻くことも、疑い閃くこともなくなる。
 満ちるというのはなにも生まれなくなるのと同義だ。
 憎悪も知識も果てなく蓄積していく。そしていつか、六日目の人間どもを根絶やしにし、調和の六の皮を引き裂いてやる。
 だから嫌いだった、完全の十が。
 円形になどさせない。丸く収めたりなどしない。輪になど囲まれない。和など求めない。
 でも、あんたはそんな使い方ができるんだ。
 こんな劣悪環境で、綺麗ごとだけでは生き延びれない日々で、何ヶ月も住んで、それでも尚、あんたの口はそんなことが紡げるのか。
 絶望でも希望でもない。ありのままの今を悲観も嘆きもせず、感性を偽らず、ただただ受け止める。内包できる。
 なるほど。全包括、全宇宙、神の栄光。完全の十。正しく神だ。そう、たった一人の。
 詩集を見つけ、おれはこの部屋唯一の光源に振り返る。

 「紫苑、忘れるなよ今の台詞。」
 「え?」

 一度だけ、あんたの理想論にかけてみる。たった一度の十からの回帰。0でなく。

 「絶対の。」






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(私信ですが、)


瑞樹さま

このたびは夢のようなプレゼントをいただき、ありがとうございました!!

数秘学…不思議な概念ですね。
2人の会話にあっという間に引きこまれてしまいました!
ネズミと紫苑のこんなやり取りがたまりません。

唯一無二の宝物です。
大切に飾らせていただきます。
本当にありがとうございました!!

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