text

□春の夜に幻を聴く
1ページ/1ページ




春の夜に幻を聴く





苛々として、何をやっても気分が転換出来なくて。
愚痴を零すなど、相談するなどもっての他。
本当なら誰にも触れられたくないのに、なのに何故だか、何かが足りない。
何もないのに、胸の奥がないものをねだって、延々と駄々をこねている。
そんなどうにも手立てのない夜は、最終手段に、つまりはアルコールに頼るしかないときもある。

けれど飲んで、単調な味に飽きる程に飲んで胃が鈍痛を訴える頃、飲み切れなくなって遂にグラスを置いたとき。
底で揺れる琥珀の液体。
見る影もなく小さくなったロックアイス。
目を閉じて机に俯せた耳元に、いつかの幻聴が聞こえるのだ。

――もう飲まれへんの?

甘やかな、其れでいて深く深く胸を抉るあの声が。

――弱いんやね、

いつもそう言って微笑んで、中味の残ったグラスを取って綺麗に空けて、そしてアルコールの味のキスを仕掛けてくる馬鹿な男。

――ばか、弱くなんかねェよ。

そうだ総てあいつの所為だ。

――酔ってもーたん?

――酔ってなんか、ねぇ。

そうだ酔ってなんていない。
なのに、口移しされたただひと口のアルコール、其れだけを、嚥下するにつれてどう仕様もなく身体が熱を持つ。

――…可愛。

――…るせェな。

毎日毎日馬鹿な台詞を聞いて。
憎まれ口を叩いてそっぽを向いて。
机に俯せた此の肩に、そっと毛布が掛けられるのを待っていた。
熱に浮かされた声で、名を呼ばれるのを、待っていた。

「……」

今となっては、あの頃の自分たちは笑ってしまいそうな程に子供で。
そして今となっては、其れこそ泣きたくなる程に、此の身を揺さぶる記憶のカケラ。

「…弱くなんて、ねェよ」

もう、毛布を掛けてくれるあの優しい手は其処にはないから。
飲み残した液体を一気にあおって、グラスを片手に立ち上がる。
だが一瞬くらりと視界が歪んで、再度机の上に手を突いた。
目を閉じてゆっくりと息を吐く。
頭が重い。両の瞼はもっと重かった。
此の侭ベッドに倒れ込んだなら、何もかも忘れて眠れるだろう。
下らない日常も、馬鹿みたいに甘い過去でさえも総て、総て忘れて。

「…おやすみ、」

そして空気に呟いた。
あの頃の二人に届けば良いと、酒に酔った頭の中を、不可能な願いが行き過ぎた。





―了


+++++++++++++++
ブラウザバックでお戻りください。

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ