NO.6
□とある世間知らずの話
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荒野に咲いた、たった一輪の薔薇を見た。
孤独に、しかし気高く天を見詰めるその姿。
あぁおまえはなんと美しい。
高い塀の中よりも、おまえの傍で私は生きたい。
連れて行ってくれ。
私の知らない、おまえの世界へ。
とある世間知らずの話
荒野の薔薇はこう言った。
『あぁおまえはなんという馬鹿な男。煌めく王都を捨ててまで、この地の最果てに来たと言うのか』
これまで城壁の外へ出た事などなく、世間を知らぬ男はこう答えた。
『あぁなんと美しい荒野の薔薇よ。私はおまえの姿をこの目で見、おまえの声をこの耳で聞き、おまえの放つ香りを嗅いで、おまえの存在を肌で感じ、そしておまえの甘美な言葉に酔いしれる事が出来たなら』
「他にはもう何も必要とはしないのだ、か」
お伽噺の本から目を上げ、紫苑はそっと溜め息を吐いた。
散歩だと言って外に出たネズミはまだ帰ってこない。
椅子の肘掛けに頬杖をつこうとして、ふと首筋に触れた指先。
その感触は先程のネズミとの遣り取りを否応なく思い出させて、紫苑は再び顔が熱くなるのを感じる。
反則だ。
あんな風に、極上の声を耳に流し込まれて、滑らかな指先で蛇をなぞられて。
遊ばれているとしか思えない。
そうでなかったら何なんだ。
全く、ネズミが何を考えているのか判らない。
自分の顔が、どうして勝手に火照るのかさえも判らないのに。
そうさ、いくら芝居の練習だからって、何もあそこまでやる必要はないじゃないか。
しかも挙げ句の果てには、キスまでされるところだった…。
「挙げ句の果てには、何だって?」
そして予期せず頭上から降ってきた声に、紫苑は心臓が止まらんばかりに驚いた。
「ネズミ?! お…おかえり」
どうやら独り言を知らず口に出してしまっていたらしい。
(どうしてこうタイミングが悪いんだ…!)
いつ帰ってきたのか、何処まで聞こえてしまったのか、直ぐにでも問い質したい気持でいっぱいになる。
しかしネズミは特に気にも留めない風で、紫苑が膝に広げた侭の本を覗き込んだ。
「ん? なんだまた小ネズミたちに読んでやってたのか。
『挙げ句の果てに馬鹿になったか、いや元々馬鹿なのか。生きる為に本当は何が必要なのか、おまえは全く判っちゃいない』
…荒野の薔薇、ね」
空んじているのか、それとも瞬時に頁を読んだのか。
すらすらと続きを口にしながら超繊維布を剥ぎ取って、振り返ったネズミは「ただいま」と微笑んだ。
「…何だか、ネズミみたいだ」
ふと思った侭を口にする。
途端にネズミは怪訝な顔。
「何が」
「だから荒野の薔薇が、だよ」
ネズミの両目が僅かに見開かれた。
たった独りで荒れ野に立つ、精巧に作られた彫刻のようなその姿。
夜明けの空を写した瞳と、風のように伸びやかな歌声。
お伽噺を読んでいて、重なる姿はただひとつ。
脳裏に浮かぶのは赤い赤い薔薇ではなくて、灰色の瞳なのだからどう仕様もない。
「ネズミは、まるで荒野に咲いた薔薇みたいだ」
そう感じる事に偽りはないから、言葉にするのも悪い事ではない筈だ。
それでも、また冗談にされるかな、と少し思った。
「…それならあんたは、荒野の薔薇に心奪われた『世間知らずの男』だな」
けれどネズミはそうしなかった。
目を細め、しかしどこか自嘲にも似た笑みを浮かべてそう言った。
…成る程ね。そうすれば登場人物が揃うのか。
「そうだね、そうかも知れない」
「ばか、そういうときは、『ぼくは世間知らずなんかじゃない!』って怒るんだよ」
「でも、本当の事だ」
ネズミは「どうだか、」と肩を竦めて、シャワー室に消えた。
嘘じゃあない。
それにあながち間違いでもない。
何も知らない侭生きてきた。
嵐の夜が運命を変えて、壁の外で生きたいと願った。
そして何より、ぼくはきみに惹かれている。
強く気高い、きみはぼくを導く夜明けの標だ。
―了