隔離文

□不可分の事柄
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簡易テーブルに用意していた菓子はほとんど残っていない。
追加するのは構わないが、もしお腹が空いているのだとしたら作業を中断してでも少し早いが夕食に誘うべきか、と窓の外を眺めながら思案する。
どのみち、今日はここに泊まり込む予定だったから、いつ休憩を挟もうが変わらない筈だ。
そんな事を考えながらの暫しの沈黙のあと。
何故か戸惑うような視線を向けてくる彼に気付き、首を傾げた。
答えは出ているのにそれを口に出すのを迷っているような素振りに、ますます首を傾げる。
やはり言いずらい答えなのだろうか?と僕が不安になるまでの短い時間が彼にとっては決意に必要な時間だったのかもしれない。
彼は喉を潤すように紅茶を一口含むと、小さく呟いた。


「……傷みと無」

「傷みと無?」


ぽつりと呟かれた言葉を反芻する。
…両想いが傷みで失恋が無ということだろうか?
……それって、まるで…


「……っ…」

「?…えーと…、あくまで俺の考えだからな?」


まるでフォローするかのような言葉。
間違った解答だったか?と不安そうに伺う視線を感じていたが、他のことに気をとられていた僕はそれどころではなかった。

何で気付かなかったのか。
いや。気付かないふりをしていたのかもしれない。

はらはらと今もなお降り、消えることなく積もり続けるそれは
一体どこからくるのかわからなかったそれは
時折思い出したように、ちりりと焦がすような痛みを発するそれは…。
その答えが、何の前触れもなく突然目の前に突き出されたことに僕は戸惑い、曝された事実に目眩を感じていた。


「ジュード?」

「……あ」


今度こそ本当に心配そうな表情でこちらへと近づきそうな彼を手で制する。
思ったよりも衝撃が大きすぎたのか、床へと向けた視線がふらふらと定まらない。


「…もう一つだけ。消えずに残ったものがあるとしたら、それは何だと思う?」

「…未練だろうな」


揺らぐ視線がぴたりと止まった。
それは、知ってしまった事に対する後悔だったのか安堵だったのか。
ぐるぐると回る思考を遮るように…逃げるように、視界閉ざした。


「消えず残ってるのなら、未練か…、あるいは、実はまだ恋をしてるってことじゃないか?」


追い討ちをかけるかのような彼の言葉。
動揺からか手が震える。
笑いそうになった。
嘲笑いたかった。
…何かが流れ落ちそうだった。
降り続けるそれが
あの枯れた筈の苗木から発生していて
いまもまだ生産し続けている意味。
それこそが、彼への想いが変化したものなのだとしたら
疼く傷みもまた、降り続ける想いからくるものなのだとしたら

……答えは一つしかないじゃないか。


「…失恋したら、何も残らないんじゃないの?」

「どうかな。そもそも恋の定義なんて人それぞれだろ。他人に強要されて持てる感情じゃない。喪失しても残ったものを認識出来るならそれは未練だろうし、なければ未練ですらない。それもまた、人それぞれじゃないか?」


認めたくない何かを突き付けられた気がした。
閉じていた瞼を持ち上げる。
俯く顔を上げると、目の前には微笑を浮かべた彼の顔。
感じる確かな傷み。
どうやら、思い違いをしていたようだ。
もしかしたら、苗木は枯れたのではなく別の何かへ変化することで成長を続けていたのかもしれない。

つまりは、そういう事だったのだろう。


「お前は、どう思ったんだ?」

「……え?」

「未練って返答に驚いてたみたいだからな」


そんな奇抜な答えを言ったつもりもないんだが。と肩を竦めて口の端を吊り上げる彼に視線を落とした。
太股に置いてある拳を握り締める。
驚いたわけじゃない。
認めたくないわけでもない。
ただ
簡単で単純な
もっとも可能性のあった筈の、その事実に気付かなかった自分にびっくりして呆れただけ。
よく考えれば、真っ先に疑っても良かった筈なのに。
その感情の未熟さ故か
やはり無意識に否定したかったからなのか。
思い違いをし、思い込んでいた。

あの降り続ける灰は


「……執着だと、思ってたんだ…」

「執着?」

「そう。昇華出来たはずなのに、消えずに残っていたのだとしたら…」


それは
相手への想いを断つことに対する寂寥ではなく、今まで育んできた想いを惜しむものなのではないかと。
純粋で綺麗な感情を喪失してしまうことへの恐れからくる惜しみ。
それはまるで、恋に憧れるような


「…執着も未練も、突き詰めれば同じ意味なんじゃないか?」

「全然違うよ」


緩く開いた手のひら。
握っていた所為でついた爪の跡を指先で撫でる。
多分、彼の言う未練の対象と僕の言う執着の対象は全く違うのだと思う。
僕の言う執着は、彼への感情が無であることが前提であり人ではなくあくまで喪失しそうな想いに対してだけに抱くものだが、彼の言う未練は人も想いも全てをひっくるめての未練なのだろう。
しかし、本当に僕のそれは未練ではなく執着だったのだろうか?
今となっては、それすらも曖昧で答えられないことにも気付いていた。
机に放置していたカップを掴み、冷えた液体を飲み下す。
窓から差し込む夕日の橙色があの荒野のように見えて目を細めた。

どちらにしても
答えを知ってしまった僕は
認めなければいけないということだけは確かで
そして、選ばなければいけない選択肢もまた用意されているということだ。


「…ねぇ、アルヴィン」

「ん?」

「好き、だったよ」


思いの外すんなりと言葉は出た。
溜まっていたものを吐き出したことへの安堵からか、何だか呼吸が楽になった気がして知らず強張っていた肩からも力が抜けた。

『僕は、彼が、好きだった』

胸中で確認するように反芻する事で、ひた隠しにしていた想いを改めて自覚していた。
一方、唐突に告げられた目の前の彼にとっては予想外の言葉だったのだろう。
驚きからか目を見開き、あからさまに戸惑うように視線を彷徨わせた後、何かを考えるように黙り込んだ。
そんな彼の様子を、まるで無関係な第三者のような気持ちでぼんやりと見つめていた。
なにやら真剣な面持ちは、多分彼なりに誠実な解答を…と考えているからなのだろう。
そんな顔は、今でも好きだ。と思う。


「…過去形、か」

「一度は捨てたものだからね」


あの時あの瞬間、彼に抱いていた淡い想いは確かに終わっていた。
果たしてそれが、恋だったのか別の何かだったのかは今でも分からない。
それでも、その想いを口にした時に出た言葉が『好き』だったのなら、やはりそれは恋だったのだと思う。
再び沈黙した彼に背を向けた僕は最初に手にした本を手にとった。
ぱらぱらと捲れば見慣れた計算式と図形。
静まり返った室内に、紙を捲る音だけが響く。


「…なぁ、ジュード」

「なぁに?」

「お前の中に…まだ残ってるのか?」


何を。とは聞かない。
指先が文字をなぞる。


「アルヴィンはどっちがいい?」

「…俺が選んでもいいのか?」

「そうだね。…うん。アルヴィンの好きなほうでいいよ」


それは、まだ降り続けたままだから。

答える声は軽い。

ずっと彷徨っていた僕の想いを答えへと導いてくれたのは彼だ。
前に抱いていた想いは自覚する前に見失ってしまった。
だから、今度の選択肢は彼に委ねてもいいかな。と僕は思っていた。


「……積もってるのか?」

「たくさんね。処分に困るくらい」

「…そりゃ…早くしないと大変だな」

「そうだね。だから…」


ぱたん。と音を立てて本を閉じる。
積もり続けるそれが残骸ではなく、知らず成長していた想いの成れの果てなのだとしたら
際限なく降り続けるのは、未練であり執着でもあり絶えることのなかった彼への想いでもあるのだろう。
いまはまだ曖昧なそれらがいつの日にか降り止んだ時、はっきりと形創るために積もった山の上に新たな新芽を発芽させるのだろうか。
それともすでに種は蒔かれ、降り積もる想いを養分に成長しているのだろうか。
僕は、その降り積もった想いの欠片達を掻き集めるように胸元に手を当てた。


「アルヴィンが拾い集めてくれる?」


今度こそ無事に成長し、実を結ぶことを願いながら。









end








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